非日常の国イスラエルの日常生活 雑感日記
© Mika Levy-Yamamori/山森みか, 2003
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5月31日(土)
昨夜は娘の友達がお泊りに来ていて、朝から夫とパンケーキを作る。自家製のいちごジャムやピーチジャムなどと共ににいただく。その後、この娘の友達がフルートを持ってきていたので、娘にピアノで伴奏させようとか夫が言い出して、練習をする。何とか格好がついたところで、2軒隣のピアノの先生に聞いてもらいたいと娘が呼びに行く。といっても安息日の朝の9時半である。まだガウン姿だったという先生は、仕方なく着替えてやってくる。 気の毒なこと。その後、11時から娘のピアノのミニ発表会。これは生徒のうちで回りもちでやるもので、今回は娘の同級生の家。近いので歩いて行く。 彼らは、私たちのようなビニヤミナ新参者ではなく、昔からここで農業をしていた一家であり、両親と子ども3人(その子どもの一人が娘の同級生の親なのだが)がそれぞれ敷地500uずつの一軒家をずらりと並べて建てて住んでいる。今日お邪魔したお宅の子ども3人は養子で 、娘と同級生の女の子は南米、2人の男の子はエチオピア系である。一家でこれほど外見が異なると、いっそ気持がよい。うちもけっこう違うけれど――私と娘の組み合わせだと日本人親子に見られ、私と息子の組み合わせだとイスラエル人とフィリピン人メイドだと思われていた。また夫と息子の組み合わせだとイスラエル人親子、夫と娘の組み合わせだとイスラエル人がベトナム人養子を取ったと見られた。この外見という記号は、人間の理性がなかなか及ばず、つい振り回されてしまう領域であるらしく、イスラエル人の中にも、私がどれだけヘブライ語を話してもどうしても英語で受け答えしてしまう人やらがいてオカシイ。ガイジンと見ると相手がいくら日本語で話していても、ついノーとか言ってしまう日本人と同じじゃないか。 そういうときは「目をつぶってみろ、目を」と言いたくなる。『いちげんさん』というデヴィッド・ゾペティの小説における、ガイジンの外見でありながら日本語を話す自分を「差別」しなかった唯一の日本人が全盲の女性であったという設定は、たいへん妥当なものであった。ふつうエチオピア系の子どもは宗教派の学校に行くので、この家の二人の男の子が、ビニヤミナの世俗系小学校にいるただ二人のエチオピア系ということになる。 このような場合は、幼稚園のクラスから子どもたちに彼らの事情を周知徹底させるようで、娘たちも幼稚園年長組のときに、この南米系の同級生の具体例と共に、「世の中には養子という制度があること」、「外見がどれほど違っていても家族であること」を、先生に説明されてきた。で、この種の集まりは菓子持ち寄りなのだが、昨日用意したケーキとクッキーが残っていたのを幸い、おから塩味クッキーを持って行く。発表会後の歓談で、おからと豆腐のレシピをヘブライ語で出版せよと強く勧められるが、20年ほど前に当時ヘブライ大学に留学していたI氏夫人がヘブライ語で豆腐のレシピの本を出版していたのを思い出し、その旨言うと、「20年前の本なんてどこにも売っていない」と言われる。まあそうなんだろうねえ。 午後からは、うちの電気系統兼夫のHP担当者一家が来て、昨日以来残っていたケーキを一掃。ケーキからケーキ、歓談から歓談へという、恒例の安息日。
ハアーレツ電子版を読んで、昨年9月に首相が外国人労働者を今後受け入れないと決定し、12月以降農業及び建設業に携わるための外国人労働者が入国していないことを知る。なるほど。それが最近の東欧、アジア人へのビザ延長拒否問題の背後にあったのか。そしてその状況において先週、一定数のパレスチナ人に労働許可を与えることにしたのか。でも、日本人の大学院生や日本語講師の仕事というものは、ビザが出されないからといって、イスラエル人やパレスチナ人においそれと回せるものでもないんですけれど。
5月30日(金)
昨夕、空気中の砂と共に季節はずれの雨がぱらついたため、窓もクルマも洗濯物もすっかり汚れてしまった。仕方がないので洗濯物をもう一度水洗いする。でも今日は気温も下がり、空もきれい。朝から、キブツに魚をもらいに行く。庭の池に入れるためのものだけれど、金魚というより10−20cmの鯉を30匹ぐらいくれた。すべて発色だか模様だか形だかが悪いために売り物にならない運命のものだそうだ。庭の池に放つと、さっそくネコとカワセミがやってくる。その後スーパーに行くと、特売品の棚に積み上げられたケチャップの前で顧客とマネジャーらしき人々が声高に口論している。「このケチャップを特売品だと思って買ったのに、レジでは特売表示の値段より高い値段で打たれていたことに家に帰ってから気付いた� ��という抗議のようである。双方とも引かず、というか、「これは詐欺だ! 何人の客が気付かずに高い値段を払ったことか!」と怒鳴る顧客に、マネジャーらしき人物が「故意にやったのではない、間違いだ!」と怒鳴り返している。すごいなあ、としばし見とれる。おかげで、ケチャップを買わなければならなかったことが思い出せたが。
夫が、午前10時半からうちでイスラエル物語作家ナントカ会議みたいなのがある、というので、おそうじの人を急かせて1階だけ先に終わらせてもらう。ケーキと塩味おからクッキー(昨日豆腐と共におからも届いたので)と飲み物の準備がまだできないうちに、人々がやってくる。結局、作家、編集者、挿絵画家たちが20人ぐらい来た。会場費節約のため、今回はうちでやることになったらしい。けっこうアメリカンジューイッシュが多く、英語とヘブライ語がちゃんぽんで飛び交っている。みなそれぞれ、自分の経験を語ったり情報交換したり。私は別に関係ないのだけれど、何となく切れ切れに聞いていると、どのようにして質の高い作品を商業主義の流通システムの中で読者に届けていくか、が主題らしい。イスラエル最大� ��書店チェーンの名前が挙がると、皆ヘブライ語で最大の罵りを浴びせかけている。いずこも作家は流通システムで苦労するようだ。夫は、福音館の絵本などを取り出して見せている。
今までこのサイトでは、1ドル=約5シェケルで計算した値段を書いてきたのだが、ロードマップ受容と国家予算通過を好感して、今日は1ドル=4、4シェケルという2001年のレートまでシェケルが強くなったと言う。世の中にはオプティミスティックな人々もまだいるのね。ここ最近、友人のだれ某は取引先が入金してくれなくて借金がいくらいくらあるらしい、とか、だれ某はもう3ヶ月給料をもらっていないらしい、とかいう話ばかり聞いていたのだが。
5月29日(木)
庭のぶどうの房が、だんだん大きくなってきている。1ヶ月前に採った野生のスピナッチは、再び群生している。今日は今年一番の熱波だそうで、テルアビブでは40度以上あるらしい。うちは、設計が省エネ仕立てなので、こんな日でも冷房なしでけっこう快適なのだが、外に一歩出ると、空気に砂が混じっており、かなり辛いものがある。 午後からは、砂で空が黄色くなって、気の滅入る天気。そういえば一昨日、うちの冷房を設置してくれた人が、夏に備えて点検に来て、ガスを入れなおしてくれた。うちは、1階がキッチン+サロン、客用寝室と私の仕事部屋、2階が主寝室と子ども部屋2つ及びTV 鑑賞用小サロン、そしてその上のロフトが夫の仕事部屋となっているのだが、2階以上にはミニセントラル空調機{各部屋に吹出口がある)、1階は中古の空調機がキッチン+サロンに取り付けてある。私の仕事部屋は、一応密閉できる保安室なので、空調機は付けられないのだが、外気と遮断されているせいかそれほど暑くない。この人 は、本来はバス会社で働いているのだが、副業として冷房設置をやっており、うちの冷房は彼が助手を使って全部組立、設置してくれた。イスラエルは、この種の個人の職人が多く、どこか故障したりしたときにはメーカーなどには連絡せず、このよう な人々に頼むことが多い。 そういえばうちの暖房用石油ストーブも、買ったのは北部のドルーズの村だが、設置してくれたのは本業が航空会社職員の近所の人であった。500リットルの石油が入る缶が庭に設置してあり、そこから床下を通して石油が常時供給されるようになっているのである。この人は、趣味と実益を兼ねてストーブや煙突をいじっており、冬が近づくと点検に来てくれる。このような技術を持っていて親切な人 には、口コミでどんどん仕事がくるシステム。それにしても、バス会社とか航空会社に入ろうと発想する人は、元々この種の機械いじりが好きなのだろうか。
なんだかニュースで、アブ・マゼン(アッバス)とシャロンとブッシュの会談だとか、アブ・マゼンが歴史的な和平への一歩を踏み出そうとしているとか言っていても、一向に希望というものがかき立てられない。 一度砕かれてしまった希望を、もう一度何の保証もなく抱くということは、ことほどさように難しいものかと思う。 ハアーレツ電子版には、「今こそ成熟した現実的前進を」、というふうなことが書いてあるが、成熟を経た希望というものは、何と言いましょうか、苦い味のするものなのだなあ。同僚の先生からは、ビザの更新が拒否されていたことが判明したというメールが来る。学生たちの話では、ハイファ大学の日本人学生も、ビザが更新されていないそうだ。
5月28日(水)
大学に行って、学期末テストをオフィスに持っていくと「おお、よく持ってきてくれた」と秘書に感謝される。テストは、実施日の2週間前にA日程とB日程の分をそろえて渡すという規定になっているのだが、あまり守られていないようだ。私だって、今回は実施日の2週間前というのは守ったけれど、渡したのは1、2、3年生用ともA日程のものだけ。B日程用のはまた後ほど、と言って帰ってきた。ま、忘れていないということさえ秘書にアピールしておけば、別に1週間前に渡してもたいしたことにはならないだろう。このA日程とB日程というシステムだが、テルアビブ大学は学生の専攻が多岐に渡っているため、取っている 科目の組み合わせによっては、どうしても試験時間が重なるものが出てくる。それで予め、どの科目であれ試験を2回行うのが前提となるのだが、A日程とB日程の間は1ヶ月以上開いていなければならない。ま、2回チャンスがあるというのは良いことなのだけれど、学期が終ってからも何だかエンエンと試験が続いているような気になるのである。また、A日程とB日程のために、同じレベルだけれど違った問題を二つ予め用意しなければならない。軍の予備役などで両方ともに来られなかった学生のために、さらにまたC日程とか特別日程とかが組まれることもある。何と申しましょうか、教員泣かせのシステム。学科のオフィスには、なお大学院開設を求める学長への署名用紙が貼りだしてある。本当にこんなので効果があるのだ� ��うか。まあ、学科を閉めるとぶち上げれば、院生だけでなく学部学生も動くだろう が。また手紙をいっぱい重ねて持って行くというのは、イスラエルでよく使われるアピールの手法なのだけれど。学科を閉めるかどうかの危機的状況だというのに、学生たちは「日本の夕べ」をやりたいとか言っている。「中国の夕べ」とか「ヒンディ語の夕べ」とかが企画されているのを 掲示で見たのである。だから、ジャパノロジストの学科長も私たちもそういう雰囲気じゃないんだってば。学生が自主的に企画してこういうことをやりたいと言ってきてくれれば、私たちも協力するけれど (私だってそのような催しのためにかつてヘタな劇の脚本を書き、イヤがる同僚の先生たちを説き伏せて参加してもらったりしてきたのである)、日本人教員が自ら動いて 楽しいことを企画する、というのは期待しないでちょうだい、来年があるとすれば、来年がんばって企画してね、と言う。
うちに帰ると、お豆腐が届く。ようやく柔らかい豆腐が食べられるようになった。ありがたいこと。
5月27日(火)
朝から学校に持っていくサンドイッチのことで、娘に文句を言われる。イスラエル人は、チョコスプレッドとかジャムとかピーナツバターといった塗る系のモノを、サンドイッチのパンの両側に付けないとガマンができないらしい。しかし私は、あんな甘いものを両面に塗るなんて、とつい思ってしまって、片側にだけ塗って上からもう一切れのパンをのせ、サンドイッチにするのがやめられない。しかし、娘も夫も、それだと塗っていないほうのパンが後々まで乾いていて、おいしくないのだと言う。そうなのか? 私は生まれてこのかた、そんなことを気にしたこともなかったが。息子もきて、絶対両面に塗るべきだと言う。ホントにもう、そんなことをしているから、1週間にチョコスプレッドを一瓶使い切ってしまうのよ。
ハアーレツ電子版で、パレスチナ人労働者を再びイスラエルに受け入れるしか、この双方の苦境を乗り切る道はない、という主旨の記事を読む。イスラエルでは、特にアル・アクサ・インティファーダ以降パレスチナ人労働者の代わりに 、アジア及び東欧から労働者を受け入れてきた。 しかし、パレスチナ人は現金収入を得るためにはイスラエルに労働力を売らざるを得ない。またイスラエルにとっては、アジア、東欧労働者に支払った賃金は本国に送金されてしまうが、パレスチナ人労働者の場合はイスラエル製品を購入するという利点がある。フェンス設置による分離ではなく、テロの懸念を克服してパレスチナ人労働者を受け入れるというアクロバティックなことをしなければ、未来への展望は開けないのである。その一方で、再三書いているように、現在もめている外国人の労働ビザ問題がある。外国人労働者にとっては、イスラエルから締め出されるのは「人権問題」となるだろう。和平達成とか二カ国共存とかの言葉の背後に横たわる各種の困難を思うと、もうそう簡単には希望を抱けないのである。
5月26日(月)
ストの記憶が薄れたため、あまりありがたいとも感じず電車に乗って大学に行く。休み時間に演習助手の院生が来て、来年のカリキュラム問題がどうなっているのかを話してくれる。テルアビブ大学の東アジア学科は、95年の学部学科開設時から大学院コースの設置を目標としてきたのだが、そして一昨年あたりからそれが実現しそうだったのだが、とにかくこの不況のため大学当局は大学院設置は無期限見合わせという回答をしてきたらしい。で、学科長を中心とする教授たちが学長に、「大学院が開設できないなら来年学科を閉じる」という強い態度に出たそうだ。それで、演習助手の院生たち(彼らは、他の学科の大学院に籍を仮に置きながら勉強しているのである)がまず、連名で学長に手紙を書き、また学部学生に広くサポ� ��トの署名を求めるという行動に出たのだそうだ。私に話しにきてくれた院生は、あちこちのクラスに入っては学部学生に協力を呼びかけている。また大学院のクラスに行ったら、皆が学長に提出する手紙の文言を推敲している。学科のオフィスには、署名を集める掲示 が出て、また学長宛の個人の手紙を受け付けるファイルも置いてあるそうだ。おお、いきなり学生を巻き込んだ政治の季節に突入してしまったのね。イスラエルだなあ。だいたい毎年200人以上の新入生がやってくる学科をそんなに簡単に閉じられるわけがない。現在の1年生、2年生はどうするんだ。途中でおっぽり出すのか。どうせいずれは双方が歩み寄って何らかの現実的な合意に達するのであれば、もうちょっと穏当な言い方とか方法とかはないものか。ないんだろうねえ。穏当に言っていたら、手に入るものも入らないかもしれないんだし。
授業の後は、同僚の先生と町に出る。私が今書いている原稿のための写真をさらに用意したいと言ったので。写真を撮りつつ、またアイスクリームをなめつつ歩いていると、3年ぐらい前の学生に声をかけられる。テルアビブは狭いので、たまにしか町に出なくても、何らかの知り合いに会う。そしてまたぼうっとした顔でふらふら歩いているときにかぎって、学生に会うのである。
5月25日(日)
大学のカリキュラムは、あまりにも来年のことが決まらないので、同僚の先生によると、学生たちのあいだでいろいろな噂が流れているらしい。ロードマップ受入閣議決定とかニュースで言っていても、だれも何の希望も抱かない、というのはすごい。93年以降イスラエル社会の間でどんどん盛り上がっていった「和平は必ず達成される」という確信は、あれはいったい何だったんだろう、と改めて思う。94年に、私たちが東京からビニヤミナに移住してきたとき、息子は小学校1年だったが、その年の小学校の年間テーマが「平和」だった。やたらハトの形の紙の切り抜きを作らされたのを覚えている。アル・アクサ・インティファーダが始まってから、あまりにも多くの停戦合意が結ばれ、それがことごとく空しかったからねえ。 そういえば、一昨日書いた「アニー オプティミ」のTシャツだが、日本で着てくれそうな人が見つかりました。「アニー オプティミ」の下に、「責務なし。週末と祭日のみ有効。在庫がなくなるまで。」と書いてあるもの。イスラエルでは、もうオプティミズムの在庫がなくなってきたのかしらん。
昨日パートナーが見つからず、カヤックを漕ぎに行けなかった夫が、今日は画家兼左官家兼左官屋のアラブ人の友人と一緒に海に行く。でも風が強くて、何度も沈したそうだ。アラブ人の友人は、初めてだったそうで、寒い寒いと言って帰ってきて、セージのお茶をふうふうと飲んでいた。気の毒に。今晩は、息子の学校(中高一貫というわけではないが同じ敷地)で、「スポーツの夕べ」があるという招待状が来ていた。昨年息子は、学年最優秀スポーツなんとか、をもらった。一位が盾で、二位が40ドルぐらいの図書券だか金券。何と申しますか、「名をとるか、実をとるか」ということの意味が実によく生徒に分かるような教育方針である。去年息子は盾をもらったのだが、今年はどうなることか。娘は最近、夫にせがんで絵の� ��き方を教えてもらっている。デッサンの仕方とか影の付け方とか。こうやって、また絵を描く人が再生産されていくのねえ。
5月24日(土)
イスラエルの壁は良いアイデアだった理由
朝からまた試験問題関係の作業。以前はこういう細かいことは、モト同僚のM氏が一手に引き受けてくれていたのに、なんで日本に帰ってしまったんだとウラみながら。生後9ヶ月のときからのBFの家に昨晩はお泊りしていた娘をピックアップして、ハイファの夫の母の家に昼ごはんを食べに行く。今日は息子は、学校に出す文学のレポートの共同作業のために友人が来るとか言って、家に残る。夫の母は、エジプトのアレクサンドリア出身なので、基本的にミズラヒの料理。家系的にはアシュケナジも混じっているらしいが、ゲフィルトフィッシュとかそういう系統の食物は一切食べない。で、何を食べるかと言えば、とりあえず米。エジプト出身の人の米好きはつとに知られている。で、その米に、オクラやインゲン、エンドウ豆� ��トマトソースで煮込んだもの、あるいはフムス(ひよこ豆)とマンゴルドという菜っ葉(以前どこかの掲示板でこの野菜の英語名を知ったのだけれど忘れてしまった、手元の独和辞書にはフダンソウ(の変種)、家畜飼料用と書いてある)を煮込んだものをかける、というのが基本である。もちろんそれとは別に、牛肉を煮込んで薄く切ったものや、鳥肉などが、メインディッシュとして付く。子どもたちが好きなのは、マフルーンという料理で、これはジャガイモを2cmほどの厚さに切り、その中に挽肉を詰めてからころもを付けて揚げ、それをさらにトマトソースで煮込んだもの。揚げてから煮る、というのがポイントのようで、彼女は鶏肉のつけ合わせのポテトも、いったんチップスのように揚げてから煮込んでいる。ま、長時� �煮る、というのが料理の基本なのである。しかし以前日本に住んでいたとき、「国際結婚」をテーマとしたTV番組のディレクターだかが電話してきて(どうでもいいけれど、日本のTVは国際結婚にちなんだ苦労話というのがつくづくお好きである、何度もそういう電話がかかってきた)、「山森さんはご主人のお母様と一緒に料理をなさることもあると思うんですが、で、そのとき宗教にからんだ問題などがいろいろ出てくると思うんですが。。。」とか言っていた。私は結婚してから1 6年になるが、夫の母と一緒に料理をしたことは一度もない(皿を洗ったことは何度もあるが)。また宗教がらみで食物の問題が発生したことも一度もない。さらに、夫の家族全員の中で、私が、好き嫌いを言わずに出てきたものをすべて食べる唯一の人間である。というわけで、そういう電話には「問題があったことは一切ございません」と返答して切るようにしてきたのだが、今でも日本のTVでは、そういう話が好まれるのだろうか。
帰りにハイファの海を見ると、すごい量のクルマが駐車している。みんな海に繰り出したようだ。夏だなあ。午後から夫は、カヤックを漕ぎに行く相手をさがすが、皆都合が悪くて行けず。カヤックをクルマの屋根の上に乗せるために、もう一人オトナが要るのである。私はすぐに落っことすので(だってうちのクルマは四駆で背が高いんだもの)、員数外。和平ロードマップのための会談とニュースで言っているが、「アラファトが居座っているかぎり同じだろう」という空気が、イスラエル人の間では濃厚。
5月23日(金)
最近、経済的苦境を理由として自殺するイスラエル人のニュースをよく聞くようになった。昨日は、ビニヤミナの31歳の失業中の男性が、自殺したそうだ(ピストルで頭を撃って)。何でも、彼が18人目の自殺者 だという。昨日の朝は、多額の負債をかかえて自殺しようとしたが(睡眠薬で)果たせなかった女性がラジオに出ていた。彼女は(そこが何と言っても前向きなイスラエル人なのだが)、状況打開のためにエルサレムの閣僚にアポを入れて会いに行くのだ、と言っていた。自分一人ではなく、負債を抱えた多くの人々のために何とかしなければならないと。その後キャスターが「自殺に失敗したことは神に感謝ですね」と言ったとき、彼女は「とんでもない! 残念至極だ!」と言ったのだが、キャスターは重ねて強く「いやちがう、あなたは先刻自分自身で神に感謝だと言った」と反論していた。もうまったく、トピックが何であれ、すぐに論争スピリッツに火がついてしまうイスラエル人。それにしても、これは本当に深刻な事態であ� ��。この不況の直接的原因は、アル・アクサ・インティファーダ以降の政治状況悪化なのだが、以前ならば信じられた「土地と和平の交換」が最早まったく信じられなくなってしまったために、政治的な打開策が何ら見出せないのである。イスラエル軍がパレスチナ側への治安権引渡し等の合意をせずこのまま占領地から一方的に撤退したら、めでたく二国が共存できるとは、よほどの夢想家でないかぎり到底考えられない。「パレスチナ全土の解放」を目指す人々が、ここぞとばかりに全力で軍事攻撃を始めるだろう。そうなってしまったら全面戦争である。今までの経緯から考えて、国連軍がそのとき介入してイスラエルを防衛することはないだろうし、イスラエル軍の撤退をさんざん唱えた全世界の知識人が義勇兵としてやってくる� �ともないだろう。国連がイスラエルとパレスチナの分割、イスラエル建国を認めた後で、何故イスラエルが独立戦争に突入しなければならなかったのかを、イスラエル人は決して忘れていない。「国際世論」の目的がイスラエルの消滅なのであればそのように声高に言えばよいのであって、あたかも良心派のような顔をしてイスラエル軍の撤退だの国連決議の遂行だのと遠いところから奇麗事を言ってほしくない、とイスラエル人は思っている。しかしだからといって、入植者の強制退去(あるいは「見捨てる」ことでの実質的な強制退去)後「フェンス設置」をして一方的に撤退するというのが優れた解決策というわけでもない。ベルリンの壁のような強固な壁でないかぎり、フェンスは単なる象徴にすぎなくなる。それにパレスチナ経 済は、イスラエル経済なしでは成り立たない。イスラエルがこの経済状況なら、パレスチナの状況は推して知るべしであろう。この3年さんざん議論し尽くして、多くの人々が到達した境地が、「なるようにしかならない、どんな状況でもオプティミスティックであり続けるしか生きていく道はない」というものなのである。私も、「アニー オプティミ」(私はオプティミスティックだ)と書いたTシャツをもらったりした(着て歩く気にはなれなかったが)。しかし、イラク戦争が終わり、アブ・マゼン(アッバス)新首相が就任しても事態は結局変らないのだということがだんだん明らかになり、経済的にはどんどん苦しくなるという状況で、オプティミスティックであり続けるのは並大抵のことではない。今回のヒスタドルートの� ��トにしても、「これが勝利というのなら、敗北は何だ?」とハアーレツ電子版で皮肉られていた。18番目の自殺という前述の記事に付けられた読者コメントには(Ynet)、シャロン、ネタニヤフ、ペレツ、このような報道をするメディアへの批判がすべて出揃っている。新聞社のニュース電子版に読者からこのように直接コメントを付けるシステムは、まあ削除規定はあるのだろうが、編集部のお眼鏡にかなったものしか載らない投書欄より世論を反映していると言えるだろう。日本で同様のシステムが機能するかどうかは、たいへん疑問だが(なんといっても イスラエルは人口が少ないので)。
すみません、クラくなりました。 しかし、9・11、イラク戦争と続く、だれもが自分の生きている世界の安定性を信じられなくなる流れの中で、「左」であれ「右」であれ、「和平派」であれ「武力行使賛成派」であれ、知識人やメディアの発言の底の薄さ/厚さが、明確に感じ取れるようになったのはまあ慶賀すべきことなのだろう。これまで私としては一定の評価をしてきた人が、今となっては驚くほど底の薄いことを言っているのにハタと気付くというのは、愉快なことではないけれど、有益なことだと思う。
5月22日(木)
学年末になってきて、いろいろな用事が増える。試験作成とか課題授与とか配点とかエクセル表への入力とか。 今までは試験問題への図版は切り貼りで入れていたのを、スキャンして入れ込もうとしてけっこう時間がかかる。イスラエルの大学は、点数をすべて100点満点で表さなければならないのが難である。ABCDEぐらいなら良いのだが、例えばレポートにおける87点と88点の評価の差など、万人が納得するように論理的に説明せよと言われても、辛いものがある。89点なんていう点を出すと、「90点にしないための嫌がらせか」とかんぐられたりもする。 以前は私も平気で89点とか88点とかいう点を出していたのだが、夫の共同執筆者のDr. F.に「ああ、あの89点という点は、すごーく腹が立つ。自分も学部のときに付けられて教員に文句を言いに言った。あの1点のために、大学院入学にどれだけ苦労したか」と言われてからは、かなり気をつけるようになった。しかもコース毎に、IDナンバーと点数が貼りだされるので、自分と同じコースを取っている他の学生が何点取ったのかが一目瞭然。そういうことをするから、点を出した後で学生から文句がじゃんじゃん来るのである。私なんか学部生のとき、他人の成績にはまったく関心がなかった。大学院に入った後は、論文のことでアタマがいっぱいで、取っているコースの成績なんて意識の外だったような気がする。 ま、私だって自分の学生時代のことなど言っても何の役にも立たないのはよく分かっている。古典ギリシア語のクラスでは、宿題をして来なかった学生はその場で立たされものだなんて話したら、何と言うヤバンな所かと思われるだろう(この習慣は、私たちの次の年度からは学生に受け入れられなくなって廃れたようである、なんて素直だった私たち――すべてが先生のギリシアへの多大なる愛の故だと分かっていたのよ)。それにしても、ABCDEだと平均点の出方にパターンが決まってしまって、奨学金授与などのときに差がつかなくなるのだろうか。ヘブライ大学でも教えている同僚の先生は、ヘブライ大学の日本語教員たちは平均点を出したり総合点を出したりするのに計算機をいちいち打っていると言っていた。すごいなあ� ��うちなんかエクセルは使っているし、曲がりなりにもWebsiteは立ち上げたし、まあマシなほうじゃないか 、と自らを慰める。
5月21日(水)
電車が動いているのはありがたいものだと思いながら大学に行く。テルアビブ大学は、来年の予算削減がどの程度になるのかが分からず、時間割も決まらず、教職員はみな戦々恐々としている。なんでも2年前だかに、突然多額の負債があることが発覚したのだそうで、こんなにお客さん(学生)がたくさんいるのに、経済的にたいへんな危機なのだそうだ。テルアビブ大学の学生数は3万人以上と言われており、イスラエルの全人口が600万人であることを考えると、これはものすごい数である。子どもを除くと、成人の100人に一人がテルアビブ大学の関係者と言えるのではないか。エルサレムのヘブライ大学は、最近学生数が激減しているのだそうだが、そこは伝統の重みで、海外からの寄付金や奨学金がまず寄せられるのがヘブライ大学なので、お客さん(学生)が少ない割には予算が潤沢なのだそうだ。よく分からない世の中である。しかもテルアビブ大学の東アジア学科は、来年から大学院コースを開設しようと画策しており、学科長はそのためのバトルを捨てていないらしい。
同僚の先生と、またタイフード1人前を分け合って食べる。何度も書いているが、これは26シェケル(5ドル)で、メイン1種、副菜2種、春巻、ソフトドリンクが付く。そのメインなのだが、ビーフと野菜のあんかけのようなもの、チキンの揚げたの、チキンと野菜を炒めたの、それに焼そばのようなヌードル(チキン入り)といったものの中から選ぶようになっている。副菜は、スープ、サラダ、チャーハンである。で、私たちは常識人なので今日は焼そば、サラダ、スープにしたのだが、このスープがまた春雨とビーフと香菜がたくさん入っている代物。盛られる量も、私たちは初めから2人分と思って見るからそれなりに納得できるものの、1人分とはどうしても考えられない量。よく考えてみたら、ヌードル、チャーハン、スープ(春雨入り)という選� �もできるわけで、そんなトレイにはいったいどれほどの量の食物が乗るのか考えると空恐ろしい。だいたい私は、この半人前の料理を2時過ぎに食べて帰ってくると、夕食はもう食べられないのである。同僚の先生は、エルサレムの町にどれだけ多くの警備員がいるか、ヘブライ大学の構内に入るのがどれだけ面倒になったかを話してくれる。ここ数日の一連のテロで、ビニヤミナ駅でも警備員の態度がふだんとは違う。銃のトリガーに指をかけるほどではないが、油断おさおさ怠りない、という感じが伝わってくるのである。
5月20日(火)
ラグ・バオメルで、子どもたちは休み。何だか学校は時限ストや休みばかりである。 娘は昨夜遅くまで焚き火だったので疲れて朝起きて来ず、昼前に帰ってきた息子は午後からずっと寝ている。世俗派の子どもたちは、ラグ・バオメルの祭日の意味などまるで知らない。ただ焚き火をして夜遅くまで外で遊べる日だと思っているだけである。昨夜は私は疲れたと言ってパスできてラッキー。しかし窓を開けていると、焚き火の匂いがしてくる。この辺りはあちこちに焚き火ができそうな空き地があるので、小学校はクラスごとに思い思いの場所で焚き火をするのだ。娘たちのクラスでは、持ち寄りの菓子やスナックやじゃがいもを食べただけでなく、ピタをこねて焼いたらしい。小麦粉と水と塩だけをこねて作る即席のピタは、家のガスレンジで焼いてもたいしておいしくないのだが、薪とか炭で焼くと、俄然おいしくなっ� ��いくらでも食べられる。しかしいつも思うのだが、出エジプトの際時間が無くて醗酵させずに焼いたパンというのは、それを思い出すために過越に食べるパリパリしたマッツァよりも、こういう即席のピタに近いものだったのではないだろうか。酵母といえば、キプロスでは2週間ごとにパンを自宅の庭で焼くときに、生地を少し残しておき、次回のためのタネとする。いわばヨーグルト方式であり、これで酵母を死なさずに何十年、何百年と、ふつうの家庭で保存してきたのはすごい。
昨日のテロで亡くなった3人のうちの1人は警備員、もう一人はうちにお掃除にきてくれるアラブの村に住むアラブ人だったらしい。まったく無意味な自爆。無意味な犠牲。アラファトとアブ・マゼン(アッバス)の対立 は今後も続くのだろう。日本の編集者から電話。今準備している原稿の変更箇所などの打ち合わせ。昨日も電話をかけてきてくれたのだが、私は大学にいたので。
たいへん漠然とした印象なのだが、日本語のネット記事等を見ていると、日本の人々はキリスト教であれ、ユダヤ教であれ、イスラム教であれ、いわゆる「一神教」にコミットしている「ふつうの人」というのを、数多く身近に見ることなく暮らしているのだなあ、とつくづく思う。身近なサンプル数が少なく、宗教の内部にいる人間というものについては想像が及ばないので、いきおいステレオタイプな理解しかできないのであろう。たとえば日本におけるキリスト教の世界を少し眺めれば分かることだが、そこには理性的な人も非理性的な人も、エゴイスティックな人もそうでない人も、思想的センスのある人もない人も、とにかくありとあらゆるタイプの人間が、非キリスト教世界におけるのと 同じぐらいの割合でいるのである。ユダヤ人においても、ムスリムにおいても、諸個人の個性とか属性というものは、宗教、民族の枠組を超えて強い。それぞれの宗教なり文化なりの特性を理念型として抽出するのは当然どうしても必要なことなのだが、その抽出したものをとりあえず括弧に入れて、比較的自由なスタンスで対象と向き合うという姿勢があればなあ、と思うのは、まあ私が多くを望みすぎているのでしょう。
5月19日(月)
ストが終ったおかげで、電車通勤できる。ありがたいことである。大学院のクラスで、何かのはずみで学生に、モト同僚のM氏は今のイスラエルの政治状況についてどう考えているのか、と聞かれる。で、M氏はパレスチナの映画D.I.を日本で見たが、その中で拡声器を持って騒いでいた俳優がハハミシヤ・ハカーメリートの一人ではないかと思った けれど確信が持てないと
サイトで書いていると答える。ハハミシヤ・ハカーメリートというのは、今は活動を中止しているが、イスラエルでは有名な 喜劇を演じるグループである。 私は、D.I.がイスラエルのTVで紹介されたとき、ちらっとその拡声器を持った俳優のシーンが映り、その後その俳優が「なぜこのような役柄で出演したのか」とインタビューされて「撮影時はそのシーンがどのような使われ方をするのか知らなかった」と答えていたのは覚えていたのだが、それ以上の記憶がなかった。ある学生が、「あれは確かにハハミシヤ・ハカーメリートの俳優だ」と請合う。「ええっ 信じられない!」と驚いている学生もいる。やはり(私は見ていないのだが)評価の割れるような出演の仕方だったのだろう。学生たちは、けっこう面白い映画だったと言う。うーん、笑えるのか、笑えないのか、いったいどっちなんだろ。今度元気のあるときにどんなものか見てみよう。ビニヤミナ駅まで帰ってくると、駅の出入り口にパトカーが止まっていてただならぬ雰囲気。大声の無線が鳴り響いていて、テロという言葉が耳に入る。ああ、やはりアブ・マゼン(アッバス)とシャロンの会談に合わせて、またぞろテロの時期が始まったのね。うちに帰ると、夫がつい先刻アフラで自爆テロがあったばかりだと言う。夫の兄の家族がアフラに住んでいるので、電話して無事を確かめている。次から次にやってくる困難。大学では、来年は30パーセント予算カットで、未だに来年の時間割の目処が立たないと言っているし。来年から職が無くなったらどうしようと夫に言うと、家を売り払ってキプロスにでも行って暮らそうかとノンキなことを言う。今晩はラグ・バオメルで、子どもたちは焚き火をする日。息子はジ� ��ロン・ヤコブの友人宅で友達どうしで焚き火をするのだそうだ。娘はクラスの焚き火。でも私は大学から帰ってきたばかりなので、夫に付き添って行ってもらう。
5月18日(日)
ストは終了。昨日も友人宅で話題になったが、私たち一般市民には予算案の細部や、その影響などをすべて把握、分析する能力はない。メディアに載った情報しかないのである。分かっていたのは、ヒスタドルートのペレスと財務相のネタニヤフが、双方とも自我の強い意地っ張りな性格だということだけ。偶然見かけたマアリー ヴ(ヘブライ語新聞)のプリントヴァージョンでは、「イラクでは生物化学兵器そのものは見つからないにもかかわらず、生物化学兵器開発に携わったという人間は次々に見つかっている。FBIは近いうちに、 いったいどのようにすればこれほど多くの労働者がいながら、これほど少ない成果しかあげられないのかを調査するために、ヒスタドルートとペレツのところに調査員を送り込むだろう」と皮肉っていた。
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エルサレムの自爆テロが、またフレンチ・ヒルであった。ヘブライ大学、ハル・ハツォフィーム校舎に近いフレンチ・ヒルはかなりの高級住宅地で、ヘブライ大学の学生寮(院生用)と隣接している。80年代に学生だったときには、寮生には夜中の警護のシフトが回ってきたのを覚えている。しかし2年前にゼエビ観光省が暗殺されたのもフレンチ・ヒルに隣接するハイヤット・ホテルだったし、今ではフレンチ・ヒルといえば、かなりの要注意地域になってしまった。ヘブライ大学の学生数が激減しているのも、むべなるかな。少しでも和平交渉への動きがあると、またテロが繰り返されていくのであろう。
娘が、同級生2人と一緒に、学校に出す研究レポートの仕上げをしている。テーマは、昔の遊びについて。問題の設定に始まり、結論に至るもの。皆それぞれ、祖父母などにインタビューしている。うちは、オハジキを材料として提供。ビー玉というのは、恐らく世界に広く見られる遊びだろうが(現にイスラエルにもある)、平たいオハジキはないのである。しかし、どうして日本ではビー玉は男の子の遊びで、オハジキは女の子の遊びになったのか、と子どもたちに質問され、答えに窮する。なんでなんだろ。
5月17日(土)
昨夜、ジフロン・ヤコブに新しくアパートを借りた同僚の先生宅に娘と行く。 彼女のお母さんが先日日本から来たのだが、乗り継ぎ地のイスタンブール空港で、日本人乗客だけが別室に集められ、預けたスーツケースもすべて開けられて徹底的なセキュリティチェックを受けたのだそうだ。うーん、アンマン空港爆発が関係しているのかしら。二昔前は、日本人の女はみな重信房子だと疑われたものだが。やはりジフロンに住む、和紙をコウゾから作って電灯カバー等にして売っているイスラエル人夫妻も来ている。自宅の庭に、コウゾを植えているのである。この夫妻は、2件隣のピアノの先生宅のセミナーの常連で、ダンナさんの方はオーボエ奏者でもあるそうで、とにかく音楽のことにやたら詳しい。以前ジフロンのライブハウスにシェム・トーヴ・レヴィが出演したときにも来ており、レヴィが客席に放つけっこうマニアックな質問(これはバッハのどの曲をアレンジしたものか云々)にも全部一人で答え、レヴィにあきれられたほど。 同僚の先生とは、大学で教えるときの服装の話などする。日本と違ってイスラエルの大学では、暑くなるとテレテレしたサマードレスとか巻スカートとかに素足サンダル履きで教えに行っても誰の目も引かない、むしろエレガントな格好だと思ってもらえるのはありがたいのだけれど、長めのスカートをはき続けていると正統派ユダヤ人だと誤解されることがある、という話。 同僚の先生も、帽子が好きで、帽子をかぶってサマードレスで来ていたので、宗教派だと思われていたそうだ。宗教派の女の人は、カツラとか帽子とかで頭を覆うのである。「だって、帽子かぶらないと暑いじゃない」と彼女は言う。だからこの国では、帽子と長めのスカートというのは、一見して宗教派の女の人の記号なんだってば。一方世俗派の女の人は、年齢に関わらずいきなりピチピチのスパッツ、細身のジーンズ、かなりのミニスカートなどに行ってしまう。宗教派のように見えるのでもなく、かと言ってティーンエイジャーのような格好でもなく、というのがけっこう難しいのである。そういえば娘にも、「お母さんも、そんな長いスカートばっかりはいてないで、他のお母さんたちのようにパンツが見えるようなジーンズを� ��いてよ、今はパンツを見せなきゃだめなのよ」と言われた。そうなのか? そりゃ8歳のあんたがやったら、おなかが見えようがどうしようがかわいいで済むだろうが、私はちょっと遠慮したいぞ。しかしスカートが長めでも、ノースリーブとかタンクトップ(!)とかを上に合わせると、もしくはサンダルで素足を強調すると、宗教派には見えないはず、とかアイデアを出す。帰りにふと銀行の現金引出し機を見ると、機能しているもよう。カードを出して試してみると、現金が出てくる。ラッキー♪ これで来週スト 続行でもバスに乗れる。ビニヤミナの銀行は2軒とも無かったのに。ジフロン・ヤコブの街中の銀行は、最初から現金の収納量が多かったのか。
朝からアラブ人の左官屋・画家のお父さんが来て、庭のブドウの手入れをしてくれる。この人はずっと農業に携わってきて、ブドウの専門家なので。昨日シューク(市場)で投売りしていたトマトを、大ナベ一杯煮て、トマトピューレにして冷凍する。 昼は、パルデス・ハナの友人夫妻宅のアサド(炭焼肉)に呼ばれる。ここの奥さんはアルゼンチン系で、肉の食べ方が本格的である。アサドにふさわしい切り方で売っている肉屋をさがし、店頭に気に入った部分がなければ貯蔵室に入らせてもらってあばら付肉を選ぶのである。今日は牛のあばら付肉と、鳥のもも肉、手作りのカバブ(挽肉)を、一人700g当て用意したのだそうだ(骨を含む重量であるが)。すごいなあ。それ以外にはピーマンと玉ねぎを炭で焼き、サラダはテヒナ、オリエンタル風ナスのサラダ(テヒナで混ぜたもの)、ルーマニア風ナスのサラダ(玉ねぎを細かく切ったのとトマトを混ぜたもの)、キャベツのサラダ、トマトサラダ、ブルグル(挽き割り小麦)入り香草サラダ、フムス、ピタなど。うちの夫は直� ��5cmの 丸くて薄いカバブを3個食べただけで、サラダに回る。私は娘とアサド1切れ、鳥1切れを分け合い、カバブは4個ぐらい食べてサラダに回る。しかしうちの息子と、そこのうちの息子さん2人、それに奥さんが、どんどん肉を食べる。ナイフとフォークが使えない骨に近い部分は、手に持って歯でこそげ落として食べるのだそうだ。恐ろしいことに、一人700g当ての肉があらかた無くなる。イスラエル人の食事の量はすごいと常々思っていたが、その中でも南アメリカ人というのは侮れない人々である。
5月16日(金)
昨夜は、水泳の先生宅に招かれて、ピザをいただく。2夜連続のピザ。奥さんが銀行員なのだが、昨日はストでお休みで、ゆっくりしたから、という理由である。その人たちも、足を引きずっている夫からコトの顛末を聞き、「そういう子どもは、その場でつかまえて引っぱたくにかぎる」と言っている。夫も、「転んでも、自転車に手をかけて離さなかったというのが重要な点だ」とまた言う。はいはいはいはい。そのとおりでございます。私だって、自分の子どもがそんなことをしたら、厳しく咎めてくれる大人がいるほうがいいと思いますです。ストは続行。しかし学校は今日は通常始まり。半ドンの金曜は、1限から始まるということなのだ、と納得する。財務相のネタニヤフは、こうなったら労働者のスト権を制限すると言っ� ��いる らしい。このような発言は、ヒスタドルートはもう原則的に受け入れられないだろう。 シヌイ党首のラピードは、「ヒスタドルートはストをする以外に能がない」と言ったそうだ。泥沼である。さらにニュースには、日曜には大学の上級教員組合も支援ストを朝から2時間打つ予定、と書いてある。ええっ、こっちにもお鉢が回ってきたのか。でもこれは、ヒスタドルート支援のストなのね。以前大学の教員組合が、長期のストを打っていたとき、それを止めさせようと学生組合が反対のためのストを打ったことがあった。支援もストで表明し、反対もストで表明するというのでは、紛らわしくて仕方がない。 うちの近所の現金自動引出し機は、空になっている。 私も大学のビデオがあったことで多少油断し、あまり現金を下ろしておかなかった。今日はシューク(市場)に行く金曜日で、シュークは現金払い。その後はカードとパーソナルチェック 、近所の顔馴染みの店はツケのメモでしのぎ、どうしてもとなったらアラブの村の両替屋に(いざというときのために取ってある)ドルの現金を持って行くのかなあ。来週も電車がなかったら、通勤のためにバスに乗るには現金がいるんだけどなあ。娘の貯金箱から借りようかなあ。ま、そんな先(来週の月曜日)のことを今から心配しても仕方がない。来週になってから考えよう。どのみち、なるようにしかならないのである。
パレスチナとの交渉は、今度はパレスチナ人の「帰還権」が問題として前面に掲げられているもよう。前回交渉決裂の主原因となったエルサレムの帰属問題はどうしたんだ。パレスチナ人の100%の帰還権というのは、現実的には到底かなえられそうにない理念的主張である。それがあたかも現実に手に入るかのような言い方をパレスチナ指導層がし、それを多くのパレスチナ人が信じると、またもや悲劇が繰り返されるだろう。イスラエルの報道によるとアラファトは、アル・アクサ・インティファーダのとき、一方で停戦合意を発表しておきながら(英語メディア)、パレスチナ放送ではアラビア語で「我々は独立の10分前にいる」と言っていたのである。しかし、いったいパレスチナのふつうの人々は、アブ・マゼン(アッバ� ��ス)新首相とアラファトについて、どう考えているのだろうか。欧米メディアやアラビア語メディア向けの公式見解とか、政治的に無色とは言い難いボランティア団体発ではない情報が、どこからか上がって来ないものか。 このところずっとパレスチナ側からロケット砲が打ち込まれているイスラエルの南部の町スデロットでは、真の危機はロケット砲というよりも、経済的苦境だと言っているそうだ。パレスチナでも、あまりにも人々に購買能力がないので、フムスが一皿1シェケル(20セント)で売られるようになったという噂である。イスラエル経済とパレスチナ経済は、密接な関連がある。このままでは、共倒れである。
5月15日(木)
もう5年ほど前に1年生だった学生からメールが来る。彼は、新移民者だったのだが、1年の終わりに通常兵役3年の召集がかかった。平均点が90点だか95点だか以上あれば延期できたのだそうだが、結局延期にはならなかった。私も、多少は考慮したが、まあ不正と言われるような点の出し方はしなかったのを記憶している。で、兵役がもう終ろうか、という頃に一度大学に来て、復学するからと言っていたのだが、満期直前に(理由は知らないが)足を負傷し、除隊になった。けっこうな大怪我だったようで、何度も手術を繰り返し、それでも無理に2年目のクラスに杖をつきながら復学してきたのが昨年度のこと。もう教科書は変わっているし、知識も錆ついているし、でなかなかたいへんだったのだが、それは本人が文句も� ��わずに明るく努力し、クラスメートもいろいろ援助することでクリアできた。問題は足の具合がまた悪くなって外出できなくなったことで、結局通学を続けられずに休学した。その後も手術を繰り返しながら、結局はアメリカの通信制学位取得コースで勉強することになり、その推薦状も私が書いた。今度はその通信制のコースで日本語を勉強するので、自分がやった分のシラバスを英訳したのをチェックしてほしい、という内容。あと8ヶ月はベッドから動けそうにないとか書いてあり、ちょっとしみじみしてしまう。
ストは激化。今日からは銀行もストだそうだ。空港は、昼からは着陸のみで、離陸はなしだとか。ええっ、今日の午後は夫の兄がフィリピンに発つ予定。もう空港にいる夫の兄から連絡が入り、午後遅い時間になってから少しずつ飛行機は飛び立つようだ、と言う。ああ、これがストではない「サボタージュ」というヤツね。その場にいて忍耐強く待っていると飛び立てるらしい。ヒスタドルートのペレツ氏と、財務大臣のネタニヤフは罵り合いの様相。ま、今に始まったことではないが。ミツナ辞任後党首がだれになるか不明の労働党が、メレツと合併するかもしれないとかラジオで言っている。じり貧どうしが一緒になっても、さらに混迷が深まるのではないか、との予感。小政党のメレツは、正統左派の理念維持者としての存在理� ��はそれなりにあると思う。しかし労働党がそれをやったら、たとえばキッパをかぶる程度の宗教的な労働党支持者を失うだろう。選挙の時、宗教派の労働党支持者はきちんと労働党の勝利を祈っていた。一方メレツは、完全な世俗化を謳っているのである。シヌイに流れた中道派を呼び戻す方策を立てたほうがいいのでは。
息子が、陸上競技会から帰ってくる。今日は陸上競技部の生徒は授業に出ずに競技会に行ったのだそうだ。授業はストの影響で9時始まりなのだが、息子たちは7時に出た。今回は、高跳びで銅メダルをもらったそうだ。 跳んだのは160cmらしい。痩せている利点だってあるじゃないか。夫が足に怪我をして帰ってくる。どうしたのかと思ったら、クルマで走っていたら道の脇にいた子どもたちがいきなり飛び出してきたのだという。これはイスラエルで周期的に男の子たちの間に流行る遊びの一種で、わざと走行中のクルマの前に飛び出して度胸を試すというもの。これを放置したらクセになる、と思った夫はクルマから降りて、自転車に乗って逃げる子どもたちを走って追いかけ、勢い余って転んだけれど、その血相に恐れをなした子どもたちは自転車を捨てて逃げ出し、夫は彼らの自転車を藪の中に投げ飛ばして帰って来たのだそうだ。「これでもう、二度とあんな危ないことはやらないと思う」と言っている。あああああ、まったくホントにもう� ��スラエル人の発想だなあ。学校に言うとか警察に通報するとか親を見つけるとかの前に、直接的、具体的に「教育」してしまう。以前娘のバレエのレッスンで、近所の男の子たちがレッスン中に明かりを消したり窓を叩いたりして遊び半分の嫌がらせをしたときも、そうだった。先生はカナダ出身の痩せた繊細な女の人で(バレエの先生だから痩せているのは当たり前だが)、ヘブライ語も不自由だし、とても怒鳴りつけるというタイプではなかったので、夫ともう一人のお父さんが「警備」に行き、その男の子たちがやって来たときにやはり全速力で走って追いかけて、大目玉を食わせたのであった。つくづく体力のいる国である。
5月14日(水)
朝5時起きで、ニュースをチェック。やはりストは続いている。大学の行政職員もストだと書いてあるので、家から小型のラジカセを持って行くことにする。ビデオもテープも使えないと困るし。しかし電源を落とされたらそんなことも言っていられないのだけれど。出がけに鍵束が見つからず、大いにアセッて大騒ぎする。だって行政、技術職員がストだったら、部屋の鍵を開けてくれる人がいないかもしれないので。まあ相手がイスラエル人だから、だれかをつかまえて窮状を激しく訴えれば、何とかなるだろうとは思うが。騒ぎに起きてきた夫もさがすが見つからず、やむなくバス停に向うと、後から夫がクルマで追いかけてくる。鍵は私の机の引き出しに入っていたのだそうだ。しかし私にはそこに入れた覚えがない。年を取る� ��いうのは、こういうことか。ラジカセまでぶらさげて苦労して大学まで来たのに、オフィスに行くと秘書たちが仕事をしている。ええっ、ストなんじゃあなかったの。電車はきっちり止まっていて駅には鍵がかかっていたのに。聞くと「サボタージュだけれど、仕事はしている」と言う。何なんだ、それは。「教室にビデオは来るのか」と聞くと、「来るはず」という答え。じゃあなんでニュースには、ストだと出ているんだ。まったくその場になってみなければ、具体的なことは何も分からない国である。うれしいようなアホらしいような。で、めでたく「千と千尋」のアタマ三分の一を学生と見る。スクリプトを作っていて気付いたが、この映画の台詞はセンテンスが短く、しかもたいへん簡単な日本語で構成されている。2年生で� �、8割がたはスクリプトを読めば分かるのである。やれよかったこと。
昼は、同僚の先生とまたタイフードを食べる。今日見ると、厨房にはちゃんとタイ人がいて調理していた。また、切った巻寿司も6個単位で売っているのを発見。曲がりなりにもワサビ、醤油、ショウガも付いている。たいへんやる気のある店なのである。しかし大学でこんなものが食べられるようになるとは、10年前には想像もつかなかった。80年代半ばには、キッコーマンの醤油すら買えなかったのに、とまたもやオバサンが入ってしまう。
帰りもバス。予想どおりたいへん混んでいる。電車通勤する人が、皆バスか自家用車に流れているのだから、道も混もう、バスも混もう、というものである。帰ると、夫がイーストを入れた生地でピザを作っている。マメなこと。夫が、イェディオット・アハロノット(イスラエルの代表的なヘブライ語新聞)のニュースサイト、Ynetの、テルアビブのテロ実行犯らしき人物がテルアビブの海で水死体で見つかったというニュースについて読者から寄せられたコメントの数々が、ブラックユーモアジョークの傑作揃いで面白いからぜひ読め、というので読んでしまう。訳すとおもしろみが半減するし、マジメな方からは不謹慎だと叱られそうなので、どうかヘブライ語でお読みください。
5月13日(火)
ゼネスト再突入。学校は、9時始まりだと言っている。前回9時始まりだと言うので娘を8時半に家から送り出したら(うちから学校までは徒歩2分)、学校の門が開いたのが9時でそれまでずっと門の前で待っていたというので、今日は9時 直前に送り出す。どうでもいいけど、ふつう9時始まりと言われたら、9時に授業開始と思わないか? 今日再突入したんだったら、明日も多分ゼネストだろう。明日といえば 2週間前と同じくまたもや水曜日じゃないか。大学職員もストだと書いてある、ということは、クラスに再度ビデオが来ない。もうすぐ学年末だというのに困ったわねえ。 でももっとヒドイときもあったからねえ。昨年の今頃は、大学職員がストだかサボタージュだかで、ビデオはおろか、教室全てに鍵をかけて入れなくしていた。閉め出された教員と学生はストではないので、とりあえず芝生とか階段とかそれぞれ場所を見つけて授業をやった。4月の「守りの盾」作戦に8号令状で予備役召集をかけられた学生が、1ヶ月ぶりにキャンパスに戻ってきて、さあ勉強しようと思ったらその状態で、「この大学はいったい何なんだ!」とオコッていたのを思い出す。 私も、あまりといえばあまりの仕打ちだと思った。ま、今のところ大学のメールも使えるようだし、それほどひどい状況ではないということ。そういえば、昨日テルアビブの真ん中では、駐車違反キップを切る人がストなのをよいことに、ありとあらゆる場所に駐車していた。今日も多分そうなんだろう。 気温もかなり下がったし。
ハイファ大学からきた学会の案内の表紙に、「東亜 乱―和」という漢字が踊っていて、何なんだ、と思う。裏を返してみると、「Regulars vs. Irregulars: The lessons of Uprisings in East Asia」と書いてある。確かにそうには違いないけれど、何事かと思ったじゃないの。プログラムを見ると、ハイファ大学の東アジアのボスのジャパノロジストが、1937年の日本による中国占領について話したりするようである。よくよく見ると、ハイファ大学の東アジア学科のロゴは、「東亜研究」という四文字を篆刻にしたもの。すごいなあ、漢字の イメージ喚起力というのは。テルアビブ大学の東アジア学科のオフィスには、「東亜学科、東アジア学科」と日本語と中国語の双方が書かれていたと思うが。
ブルーホールブルーホールですか
死んだと思っていたMacのプリンタが、突然生き返る。まったくもうイスラエル人みたいな働き方だなあ、と思ってしまう。午後は、娘の個人面談があるので、娘と学校に行く。教室の前には、小学校ではどこでもそうであるように、子どもたちの絵が貼ってある。ピカソの青の時代、桃色の時代、ゴッホの絵を学んだということで、まあその模写の試みというか、イメージの発展というか、とにかく青を基調にした絵、桃色を基調にした絵、ゴッホのタッチのよう(といえなくもないよう)な絵が貼ってある。また教室のドアの前には、来週のラグ・バ・オメルの焚き火に持ってくるものの分担表が貼ってあり、各自が名前を書き込むようになっている。ケーキ、スナック、ピタ、飲み物など、子どもの数だけの項目がある。娘が「� ��ーキ」というので、うちはケーキの担当。ということはだれかが焼いて切って食べやすいようにするのである。面談は、一人10分当てなのだが、うちの娘はとりあえず今のところ「問題のない先生に好かれる子」なので、「聖書」と「計算」がちょっと苦手かなという以外には話すこともなく、2分で済む。これじゃまるで、ケーキの項目に名前を書きに来たようなもの。
5月12日(月)
ストで電車が動いていないとバスで通勤しなければならないので、5時起きでネットニュースを見る。昨日ストをしていた人々に加えて、マゲン・ダヴィド・アドム( 赤ダヴィデの盾<星>つまり救急)がストに参入したとは書いてあるが、電車のことは書いていない。書いていないということはストをしていないのだと判断して、いつもの時間に駅に向う。今日の交渉が決裂したら、明日からはゼネストに再突入するのだそうだ。もう勝手にやってくれ、という感じ。
あと1か月足らずで今学年も終わるので、試験作成などの打ち合わせ。テキスト購読のクラスで、配布したテキストの行間が詰まりすぎていて書き込みがしにくい、とか学生がぶつぶつ言うので、思わずオバサンになって、「私たちが学生の頃は、ヘブライ語テキストをコピーして、そのままだと書き込めないから一行ずつ切り貼りしてからもう一度コピーしたもので予習したものだ」みたいな話をしてしまう。さらに、「日本語のワープロが普及していなかったから、修士論文なんて、友人が泊り込みで手伝いにきて、下書き原稿を書くそばから清書していったものだ」、とかつい益体もない話までしてしまう。学生は、別の国の話を聞くような顔をしている。まあ実際そうには違いない。テキストは学生用のウェブサイトにも出して� ��るのだから、勝手にコピー&ペーストして好きな行間でプリントアウトしてちょうだい。大学院のクラスに行くと、「不審物騒ぎ」があったのでエルサレムから来る学生から遅れると連絡が入ったとか言っている。はいはい。もうみんな、「この国では、何ひとつスムーズに進むことはない、必ずトラブルがある」という事態に慣れきっている。それでも多くの人々が前向きな姿勢を保っているのは、すごいと言うべきか。むしろ、トラブル続きだからこそ頑張ろうという気になるのだと言うべきか。
授業の後は同僚の先生としばらくぶりにテルアビブの中心部に出て散歩してみる。ディーゼンゴフ通りという、まあテルアビブの目抜き通り。イラク戦の前よりかだいぶん店の数も回復し、空きテナントが減っているもよう。今度デジカメを持ってきて、今準備している原稿のための写真をもっと撮らなければ。その後動いている電車に乗ってビニヤミナまで帰り、自宅に電話を入れると夫が巻き寿司を作ってこれから寿司好きの友人宅に行くところだと言う。夫と娘に駅からピックアップしてもらって、夫のウェブサイトを作ってくれた友人夫妻宅に行く。すると、フルートの先生も小さい子どもを二人連れて来ている。楽しく巻き寿司を食べる。しかし私は朝5時から起きているので、途中からヘブライ語の会話が耳を素通りするよ� ��になる。たいへん疲れると、たまにこのように「ヘブライ語飽和状態」になるのである。食後のスイカ、アイスクリーム入りコーヒーのところまで来ると、言いたいことも舌がもつれて言えないような感じになってしまう。夫が、今晩はカメラマンの友人とビニヤミナの近くに住んでいる野生のフクロウだかミミズクだかを見に出るというので、早めに失礼して帰宅。
5月11日(日)
スト再開。とりあえず今日は、政府及び地方自治体関連施設のみのようで、学校も電車もあるようだ。しかし明日からどうなるかは分からない。まったくもってホントにもう。今日もハムシーン。今日も原稿書き。1Fの私の仕事部屋と、3F(というより屋根裏)の夫の仕事部屋を往復する。原稿に必要なスキャナーは夫の部屋にあるので、その度に上に行き、ファイルを自分宛にメールするという作業を繰り返す。その合間に、ほぼ1時間ごとにコップ1杯の水を飲む。ずっと原稿書きをしているせいなのか、ひたすら暑いせいなのか、昨日から食事を作るということに対する関心が稀薄になってきて困る。作らないというわけではないのだが、今ひとつ情熱が傾けられないという感じ。などと思っていたら、息子が学校から「体重� ��少なすぎるので、医者に行くように」という紙をもらってくる。まあ身長190cmで体重が60kgそこそこなのだから、痩せているほうだと私も思うが、医者に行くほどのことか。そりゃ私は昨日から食事作りに向ける情熱には欠けていて、すごーく手の込んだおいしいものというわけにはいかないが、ひもじい思いをしないには十分な量の食べ物はうちにあるぞ。みんながダイエットをしているご時世に結構なことではないか。
朝からツアーガイドの免許維持のための研修に行っていた夫が戻ってくる。治安情勢悪化による観光客の減少はイスラエル及びパレスチナ経済に大打撃を与えており、仕事のないガイドたちは次々にイスラエルから他の国に移り住んでいるのだが、ついにガイドの中に 、知人というわけではないが、自殺者が出たのだという。「えっどうやって?」とたずねた私に、夫は「だから生活苦を悲観して」と答える。そんなことは分かっている。私は自殺の方法をたずねているのに。そうしたら「ええっ だから日本人は……こっちは自殺したと聞いただけで悲劇だと思ってそれ以上考えないのに、『どうやって』自殺したかに関心があるなんて、信じられない感性だ」と驚かれる。そうかなあ。日本だと「だれそれが自殺した」というニュースには、たいていどうやって自殺したのかがくっついている。ただ「自殺した」だけじゃあ、おさまりが悪いじゃないの。あんまり自殺率の高くないイスラエル人が自殺するときって、いったいどんな方法を選ぶものなのか、私は知りたいけどなあ。
5月10日(土)
引き続きハムシーン。乾燥しすぎていて、鼻が痛い。まったくもう、いきなり真夏なんだから。イスラエルに住んでから日本に引越したとき、息子は2歳児だったが、保育園の保母さん、保父さんに「夏服と冬服しか持っていないんだねえ」と笑われたのを思い出す。イスラエルは「寒い」か「暑い」かのどちらかで、合服を着るような移行期間がないもので。この暑いなか、夫は先日の絵画展で知り合ったヤッフォの劇場のアラブ人の自宅の補修に、左官屋兼画家のアラブ人の友人と出かける。夫宛ての電話がかかってきてその旨伝えると、みな「なんとまあ物好きな」と言いたげな風情。私は家で原稿書き。こんなハムシーンの日は、外には出られない。窓を閉めブラインドを下ろして、ひたすら水を飲む。原稿に必要で、ヘブライ� ��に訳された日本の作家の本をちょっと検索。村上春樹は「ノルウェイの森」、「象の消滅」、「アンダーグラウンド」がヘブライ語で出版済み。吉本ばななは「キッチン」、「とかげ」、「NP」。ふむふむ。しかしこの「眠り」というヘブライ語の書名は何だろう。「白河夜船」のことかしらん。漱石の「猫」は、3巻分冊で出ている(しかしヘブライ語で「アニー ハトゥール、私はネコ」とか言われると別モノのよう)。こんなの採算が取れないだろうから、国際交流基金から出版助成金が出たのかなあ。だいたいヘブライ語なんて、400万人ぐらいしか使っていない言語なんだから。しかし「坊ちゃん」がそのまま「ボチャン」と音訳されているのはすごい。いや気持は分かりますが、「坊ちゃん」なんて、テルアビブ大学の� �本語クラスの学生でも知らない日本語なのに。
5月9日(金)
またもやハムシーンの到来。ああ、夏だなあ。パレスチナ新首相アブ・マゼン(アッバース)がミュンヘン五輪でのイスラエル選手へのテロに関与していたとか、ホロコースト否定の著書があるとかいう報道がなされているようだが、もうコトここに至っては、政治家の過去をいちいちその人格に結び付けているような事態ではないとも思う。シャロンがレバノン戦争で何をしていようが、アブ・マゼンの経歴がどうであろうが、とにかく今現在、中東の安定に貢献するような仕事をするのであれば、その事実を評価すべきではないか。その種の経歴を忘れろとか抹消しろとかは言わない。 そういう面も持つ人物だとして覚えておくべきだと思う。 選挙戦の駆け引きなどの材料にするのもアリだろう。しかし、それはそれとして分けて考えるほうが建設的なような気も、最近はしてきている。だいたい平和の象徴のように扱われている故イツハク・ラビンだって、叩けば埃の出る身体(例えばアメリカの隠し銀行口座事件とか)。かつてイツハク・ラビンが訪日したとき、ニュースステーションで久米キャスターに例の口調で、「ラビンさんは、アラファト氏のことを、ホントのホントはどんな人物だと思いますか」と聞かれ、けんもほろろに「アラファトが実際にどんな人間であるかは、私には何の関係もない」と言い放ったというエピソードを思い出す。このエピソードは、今は作家になってしまった先輩が、イスラエルの話になると何度も繰り返すものである。とにかくそのとき� ��ど強烈に、イスラエルの政治家と日本のニュースの不調和を感じたことはなかったのだそうだ。 まあその意味においてアラファトは、実際にはどんな人物であろうとも(すごーく心の優しい人かもしれない)、オスロ合意に基づいた和平交渉のパートナーとしてはダメだったのである。アル・アクサ・インティファーダが始まった直後、シモン・ペレスが「アラファト、和平交渉のパートナーよ、今どこにいるのだ、出てきてくれ、返事をしてくれ」と呼びかけたとき、何の応答もしなかったのが思い出される。
先週到着予定だったのに、ストによる空港閉鎖で来られなかった夫の兄が昨夜到着。今日は、夫の伯母の一周忌なので、午後から夫の母や兄弟などと時間を合わせてハイファのお墓に行く。長方形の墓石(土葬なので、遺体の上に土を被せた上に1ヶ月後に墓石を置く――まるでベッドのように見える)に花を供え、さあ誰かがお祈りをするのかと思ったが、皆いやがっている。だいたいとことん非宗教的な家族なので、ラビも呼んでいないのである。それで、何の儀式もせずに、その後は夫の母の家に移動してごはんを食べる。この伯母さんは、結婚はしていたが子どもはいなかった。だから墓石には、「私たちの姉、伯母である・・・」と彫ってある。墓石を建てた人から見た関係を彫るのが通常なのである。見回すと、「私たちの父、祖父、兄弟であるナントカ(名前)」とか「私たちの息子、孫であるナントカ」などという墓石がある。「息子、孫であるナントカ」は、生年と没年を見ると20歳代で亡くなった もよう。彼女はエジプトに住んでいたときは、他の家族全員がイスラエルに脱出した後も残って英軍のスパイとして仕事をし、最後にすべての書類を焼却してから自分もエジプトを出た。その焼いた書類の中には、夫の母一家が以前にイスラエルで買った土地の証書も含まれていたと言う。近年その場所がどこかようやく調べがついたのだけれど(リション・レツィオンの目抜き通り)、現在は市有地になっており、もし取り戻すとすれば数十年分の税金を支払わなければならず、それを考えるとそのままにしておくほうがよいという結論に達したらしい。
5月8日(木)
ストは、公共機関はでサボタージュにトーンダウンして交渉の様子見らしい。サボタージュというのは、仕事には来ているけれど、電話に出ないとか受付をしないとかいう形態。凍結されるかもしれないと噂されていた今年度の大学の研究渡航費が出るのかどうか、おそるおそるその部署の自動返答電話にかけてIDと暗証番号代わりの生年月日を入れてみると、ありがたいことに全額支給されているもよう。来年どうなるのか、そもそも来年も働き続けられるのかどうかさえ分からないのだけれど、とりあえず目先の問題をひとつずつクリアしてていくしかない。ミツナが労働党の党首を辞任。当面ペレスが党首に返り咲き らしいと言っている。結局イツハク・ラビンが死んだときと同じ状態なのか。もはやイスラエルの左派の党首がだれになろうとも、さらにはイスラエルの首相がだれになろうとも、和平交渉は「なるようにしかならない」という気分が多くの人々を覆っているため、このニュースにもさほどのインパクトがない。 アラファトとアブ・マゼン(アッバース)の権力争いも続いているようだし。またパレスチナ人の帰還権と言うけれど、この物価高で失業率の高いイスラエルにパレスチナ人が帰還してきたとして、いったいだれが彼らの社会保障費を払うのか。イスラエル国内の子沢山の層(ユダヤ人宗教派とアラブ人)の社会保障だけで手一杯なのに。 この辺りの「理念的主張」と「実際の着地点」の見極めを、双方の指導者と民衆がつけそこなうと、またすべてがおじゃんになるだろう。双方 の指導者と民衆が共に、ふつうに生活している人々が今の状況よりはマシだと思えるような現実的妥協点を見出そうという姿勢になっていなければ、交渉は成り立たない。付け加えると、イスラエルの納税システムというのは、受注して仕事を納入し、請求書を切った時点で既に税金(この場合は物品税)の支払いをしなければならない。たとえ支払いが数ヶ月先であっても、税金だけ先に取られる。つまり、仕事をすればするほど当面の支出は増大する。受注先からの納金が期日どおりに為されることはまずなく、たいていの場合は先延ばしされる。こうしてイスラエル人の預金残高は、どんどんマイナスとなっていくのだ。
ふだんはあまり使わないのだけれどファイル共有ソフトを使ってイスラエルの歌をいくつか検索してみる。なんだかしみじみモードになっていて、レバノン戦争を題材にした映画と共にヒットした「シドンから指2本(Shtei Etsbaot mi Zidon)」などをさがすと、ちゃんとUPされている。こんな80年代の反戦歌を聞いている人がいるのね。これはレバノン戦争のとき「ここまで軍を進める」と言って指差された場所が地図でシドンから指2本分のところだったのに、結局ベイルートまで行ってしまったということに由来する。家から も女友達からも遠く離れてレバノンで任務に就くイスラエル兵の心情を歌ったもの。レバノンの村の少女を見て、遠く離れた女友達のことを思い出す。ネット検索すると、この歌詞は戦没者記念日用の歌のサイトでも出ている。でも子どもたちは、こんな歌は知らないもよう。学生と話していても感じることだが、私も「イスラエルでは昔はこうだったんだよ」とか話すようになったということか。
5月7日(水)
昨夜のスデ・ボケルの花火は、結局中止命令が裁判所だかから出たのだけれど、それが届く前に時間を早めて行われたらしい。エルサレムでは花火で、聖書動物園の動物たちがたいへん怯えているとも言っている。昨日エルサレムの同僚の先生からきたメールには、花火に犬が怯えてしょうがないので毎年独立記念日には外出できずに犬を宥めるのだと書いてある。今朝来た夫の友人は、サバティカルリーブでアメリカに行っている姉夫婦から預かったネコ二匹が、昨晩の花火に怯えて逃げてしまったと言う。なんというか、独立記念日はイスラエル中の動物にとって災難だったのね。まあイスラエルでは夏の花火大会などという習慣はないので、打ち上げ花火が見られるのはこの日ぐらいという事情は分かるが。ちなみに手に持つよう� ��花火は、誕生日のケーキの上に立てたり(これは火の粉がクリームの上に散ってはなはだまずい状態になる)、コンサートの聴衆が手に持って振ったり(これは10年以上も前の話で、今ではペンライトになっているのだろうか――前の列の人の髪に火の粉がかかって非常に危険だった)するために使われている。私たちは花火というのは、火を下にして持てとさんざん言われて育ったものだが、この辺りの多くの人は花火というのは火を上にして振り回すものだと認識しているようである。
朝から夫とその友人と娘は、海にカヤックを漕ぎに出かける。私はとりわけカヤック漕ぎが好きというわけではないので、家にいることにする。
昼はイタリア人夫妻の家に招かれていたので、サラダ三種(キャベツとニンジンのサラダ、庭のレタスとトマトとナスのピクルスのサラダ、ピーマンをちょっと炒めてレモンをか けたサラダ)を作って、夫と娘と一緒に行く。やはりイタリア人の家では、パスタが前菜である。赤ピーマンとズッキーニとツナの冷たいパスタ。それからマッシュルームに詰め物をして焼いたの。メインディッシュは、子どもたちには串に刺した肉。大人用には魚を焼いてオリーブ油をかけたもの。デザートはイタリア人が淹れるエスプレッソとアイスクリーム、スイカ。屋上で景色を眺めながら食べる。独立記念日は、たいていの家でバーベキューをやるのが習慣のようになっているが、今日はそれほど暑くなくて、まあよかったこと(うちはあまり肉を食べないのでバーベキューはやらない。息子は友達の家に便乗して焼肉を食べてきたようだが)。またもやこの国で生きていくためにはどうすればよいか、の戦略の話。私たちのよ� ��な、ふつうに仕事をしてふつうに収入を得ている層が、最も税金に苦しんでいるのである。彼らも、努力して去年より仕事を増やしたら、結局税金が増えて手取りはほとんど同じぐらいになってしまったらしい。とにかく手取りが、税その他込みの額面の30−40パーセントというのだからツライものがある。そのくせ10人子どもがいたら、社会保険だけで私たちが働くよりも多くのお金が下りるのである。2人の奥さんと20人の子どもがいるベドウィンの収入はとても多いというジョークのような実話(イスラエルでの結婚は基本的に宗教法の管轄なので、ユダヤ人には重婚は許されないけれど、ムスリムやベドウィンの場合はOK)。彼らは、イタリアに帰るかここに住み続けるかこの2年間ずっと考えている。アルアクサ・� �ンティファーダ、9・11からイラク戦争へという一連の情勢悪化により、イスラエルでそれなりの(といっても質素なものだが)生活水準を保つのはたいへん難しくなった。働けば働くほど税金を取られるというシステムは、多くの人々の勤労意欲を削ぐ。しかしそれでも、常に直面せざるを得ない様々な困難(テロ、イスラエル右派との闘い、圧力のかけあいと駆け引き能力が要求される日常、世界における反ユダヤ・イスラエル潮流との闘いetc.)にもかかわらず、イスラエルにはフェアネスを保って他者との直接的なあたたかい関係を構築し、自らのベストを尽くして優れた仕事をする一部の人々がおり、それを考えるとイスラエルに住み続けたいと思う、と彼らは言っている。その感覚は、私も分からないでもない。私たちの知� �の中にも、ここ2年の間に、政治、経済状況の悪化に伴って仕事が減少したためやむなくイスラエルを去り他の国に住む場所を求めた人たちが何人かいる。こうやって一人一人が自らの能力と妥協点を見極め、今後の身の振り方を決めていくのである。
5月6日(火)
今日も午前11時から、追悼のサイレンが2分鳴る。大雑把に言えば、昨日と今日の夕方まではしみじみする日、今晩からは独立記念日のお祝いをする日である。 で、私も昼間はアリック・アインシュタインとかマティ・カスピの歌うしみじみした曲を聞きながら仕事をする。しかし日本ではSMAPとかがうたっている歌などが反戦歌というレッテルをちょうだいすることはあっても、このような多くのイスラエル人の共感を得るような静かでナイーヴな歌が反戦歌と認識されることはないのだろう。だれもがこのイスラエルという「民族国家」を作り、維持するために支払われてきた、そして支払われ続けるであろう犠牲の大きさに思いを馳せているのである。まあここで言っても詮無いことであるが。アラファトが相手ではもう交渉が成立しないということが「国際社会」において一定のコンセンサスを得られたらしいという点、シャロン首相がかつてのネタニヤフ同様「後戻りのできない和平� ��のロードマップ」に乗る徴候をわずかならがら見せている点が、ほんの微かな希望だと言えなくもない、という感じ。そういえばハアーレツ電子版に、アンマンの空港で拾った爆弾を爆発させた毎日の記者のことが出ていた。昨日の大学院のクラスでは、そのニュースを知っている学生もいて、「日本人は本当に爆弾をお土産にしようと発想するのか、そんなものを持ち帰ってどうするつもりなのか」と聞かれた。まあねえ、常識が違うからねえ。
で、夜は一転してお祝いで、それぞれの地域で記念式典が行われたり、屋台が出たりする。夜半近くには花火が打ち上げられる。息子は昼からもうジフロン・ヤコブの友人宅にギターを抱えて行っている。泊まってくるらしい。夕方、スデ・ボケルの知人から「緊急」と言って夫をさがす電話がかかってくる。スデ・ボケルの集落(人口千人ぐらい)で予定されている今夜の花火が、ハゲワシの巣の真上で炸裂するらしいから、なんとかしなければ、と言っている。帰ってきた夫やらハゲワシの研究者やら自然保護協会やらのネットワークがあちこちから圧力をかけ始める。ハゲワシの巣があるのは自然保護地区なので自然保護協会の管轄なのだが、打ち上げる場所自体は集落の敷地内なので警察の許可が下りたらしい。しかし、なんで� ��前になるまで気がつかないんだ。その地区の自然保護協会のレンジャーが怠慢なんじゃないのかしらん。まあストもあったしゴタゴタしていたのだろうけれど。私は昨晩の追悼式に行ったので、今晩娘を連れて屋台や花火に行くのは夫の役回り。いずれにしても家から2分のロケーションなのでラクである。うちの前の道が催しに来る人々の駐車スペースになるぐらいなのだから。
5月5日(月)
うちのイスラエル国旗は、結局夫と子どもたちの手によって、洗濯バサミでフェンスに止められている。うちのフェンスは、藁のような、細い竹のようなものでできているのだが、その上に洗濯バサミねえ。いやまあ神格化していないツールとしての国旗なのはよおく分かりますが、なかなか日本の常識からは考えられない光景。だってそれだと本当に洗濯物みたいなんだもの。今晩から、戦没者記念日。とにかくこの戦没者記念日と独立記念日のおかげでストが中止され、給料は振り込まれるし、電車は動くしで大助かり。ビザが出ていない先生たちにも、めでたく2か月分の給料が振り込まれたようである。大学では昼の12時から1時までは、追悼式があるため授業が中断される。この時間は、カフェテリアもすべて閉めてしまう� ��そりゃあ戦没者を悼んでいる最中に、カフェテリアで飲み食いしている人々がいたらまずかろう。私たちは教員室でお茶を飲んでいたけれど。大学は明日とその翌日の独立記念日はクラスがない。なんだかんだ言って、後期はよく授業が潰れるのである。どうもペサハ明けあたりから、学生たちの士気が落ちてきているもよう。休みが重なるのに加え、イラク戦の緊張が解けたというのも影響しているのかも、と同僚の先生たちと話す。今にして思えば、イラク戦の開始前は相当みな気を張り詰めていたのである。今だって決して緊張を緩めてよいという状況ではなく、パレスチナのアッバース新首相との交渉とか、恐るべき不況とか、問題は山積しているのだけれど、人間そうそう長い間気を張り詰めてはいられない。
夜は8時から追悼のサイレンが2分間鳴る。ビニヤミナでも、それに合わせて追悼式典が行われる。うちから歩いて2分ぐらいの公園にプラスチックの椅子を並べて行うのである。娘が行きたいと言うが、夫は疲れて動けないとか言うので、娘と私の二人で行く。厳戒体制と言ってよいぐらいの警備陣。国旗を半旗にして、壇上のスクリーンに恐らくはビニヤミナ出身であるらしい戦没兵士たちの写真が映し出され、名前が読み上げられる。それからビニヤミナの集落長の挨拶やお決まりのカディシュの祈りなど。その後は、戦争やテロで家族が亡くなった人たちの詩やイツハク・ラビンの言葉などが読み上げられ、その間に地元のコーラスグループが歌をうたう。「約束しただろう、鳩、オリーブの枝、平和を」というフレーズがある レバノン戦争に題材をとったお馴染みの歌とか、テロで亡くなった女の子が書いていた詩にメロディを付けたのとか。最後はハティクヴァである。うーん、ツールとしての国歌ねえ。ビニヤミナ中の友人知人がたくさん来ている。ブラジル出身のかかりつけの小児科医一家を見つけた娘が駆け寄って挨拶。夫はどこかとたずねられ、もう寝ているので私と娘が代表で来ているのだ、と言って笑われる。
5月4日(日)
昨日からハムシーンで、ひどく乾燥していて暑い。もうこれで、完全に夏の到来だろう。とにかく太陽熱温水器だけで生活用のお湯がまかなえるようになったら、夏である。4月中は、昼はお湯は出ても、夜になったらボイラーを付けていた。昨日からは、夜でもそのままお湯が出る。
朝から夫と一緒にハデラのクリニックへ。私は毎回同じところに出る湿疹のようなもの、夫も何だか知らないが何かができているというので、スト前に予約を取っていた。ストで予約が飛ぶかと思ったが、ラッキーにもストは中止。イスラエルの公的保険は、以前はクラリット一つだったが、今はマカビとか競合するのが出来ている。私たちはクラリットで、内科関係の場合はビニヤミナのクラリットのクリニックのファミリードクターのところに行く。そこでカゼなどの軽症の場合はそのまま薬や休職用の診断書をもらって帰り、さらに専門的な治療が必要と思われればそれなりの機関に振り分けられる。皮膚科とか小児科とか産婦人科とかの場合は、ビニヤミナのその診療所に週に何度か来る医者のところか、近郊のクラリットの診� ��所に来ている医者のところか、クラリットと提携している医者が自分で開いているクリニックかに予約を入れて、直接行くのである。このあたりは、人気のある医者とそうでない医者が分かれるところ。緊急の場合には夜中も受け付ける場所が各地域にあるのでそこに電話して行くか、本当に一刻を争うような緊急事態の場合は、うちからだったらヒレル・ヤッフェ病院の救急に行くことになる。毎度のことだが、この種のクリニックは本当に混乱を極めている。ヘブライ語がよく話せない人とか(アラブ人の場合もあれば、ついこのあいだ移民してきたばかりのユダヤ人の場合もある)、何人も子どもを連れた人とかが右往左往していたり。イスラエルはアバウトなところと妙に官僚主義のところが同居していて、病欠だとクリニック� �証明を持って行くという慣習ができており、これがまた人々を無用にクリニックに向かわせる要因になっていると思われる。実際学生に「インフルエンザで休んでいました」と診断書を見せられても、困るのである。ビニヤミナのクラリット診療所の壁には、「すみません、ありがとう、どうぞ」という標語がヘブライ語で大きく書いてある。この三つの言葉を皆が口にして物事を円滑に進めようという意図。逆に言えば、この三つの言葉を口にする人がいかに少ないかを示している。今日だって、ドアに予約時間と名前を書いた用紙が貼ってあるのだけれど、「ちょっと聞くだけだから」と割り込もうとする人がちょくちょくいる。個々の医者とか看護婦とか事務員とかはよくやっている場合が多いのだけれど、まあなるべく長居はした くない場所。とか文句を言っていたら、夫が、「東京に住んでいたときに武蔵境の日赤病院の皮膚科に行ったときには、看護婦たちが『わあ外人、すごい胸毛』とか叫んでみんな見にきた。東京だったから見られるだけですんだけど、あれが大阪だったら触られていただろう」とか言う。はいはいはいはい。処方箋をもらって付属の薬局に行ったら人があふれかえっているので、早々に退散して夫と家の近くの薬局に行く。とにかく予約がストで飛ばなかったことを喜ぼう。
その後は、学生からメールで送られてきた発表原稿の添削。院生でとてもよくできる人なのだけれど、「自分が言いたいことが日本語になった瞬間にとても幼稚な文になってしまっているのを感じる、もう4年も日本語をやっているのに情けない」、とか言っている。そりゃああなた、それは何を言うか、だけではなく、いかに言うか、が重要なポイントになる人文系の学問の宿命というもんでしょう。だいたい日本に一度も行かずに、この低予算のテルアビブ大学の少ない授業時間数で、そんなに高度な日本語がすらすら書けるわけがない。日本で活字になっている人文系の日本語の業績用紀要論文なんか、言いまわしとか術語だけはもっともらしくても、内容は相当どうでもいいのが数多くあるのだから、と慰める。
5月3日(土)
以前1年生の学生から送られてきたTAU学生用Website充実のためのファイルを、チェックしてアップロードしたりする。こういうことが好きな学生というのはやはりいるものである。私はとりわけ好きというわけではないのだが、立場上やらざるを得ないのかな、という感じ。学期末に行われる学生への教師やクラスに対するアンケートでも、ウェブサイトを作ってほしいという要望があったし。しかしどうも、グラフィックデザインといった分野に対する関心が私には根本的に欠けているので、愛想のないツクリになる。機能しさえすれば見栄えはまあどうでもいい、とつい思ってしまうので。
昼はハイファの夫の母の家に行って昼食を食べる。夫の兄がフィリピンから来る予定だったのだけれど、空港がストで閉鎖で予定を変更せざるを得なかったとか。その後は、アッコ近くのキブツに住む友人宅に行く。彼らの息子の小学校に、レバノンから逃げてきたクリスチャンのレバノン人の子ども(バラク政権時代にイスラエル軍がレバノンから撤退したときに一緒に出てきた人々がイスラエルに数百人いるらしい)を一挙に受け入れることになり、クラスが再編されてヘブライ語を用いない授業法も取り入れられるようになったのはいいけれど、学習内容が一変してしまったとかいう話を聞く。また、ペサハの休みに彼らがオランダの親戚宅を訊ねたときの話など。とにかくイスラエル人がオランダ人の話をするときは、いかに彼� ��が食物を出し惜しみするか、というテーマに終始するのが常である。夫がアザラシの取材でオランダに行ったときも、とても仲良くなった友人宅に客として行っているのに、クッキーの缶を開けてくれて一枚クッキーを取ったらすかさず蓋を閉めて戸棚にしまわれたのがショックだったようで、どこに行ってもその話を繰り返した。彼らも、「オランダ人の主婦は台所の戸棚にカギをかけていて食物管理が徹底している、朝と昼はパンに何かを塗って食べるだけ、夜は茹でた野菜、ケーキがあると思えば一人半切れずつで、それ以上ほしくても所望できる雰囲気ではない、3日間おなかがすいてしかたがなかった」と繰り返し話す。「決して食物が足りないわけではなく、棚には食料品があふれんばかりにつまっているのに、これはもう� �ンタリティという以外にない」と。そりゃまあ、イスラエル人の食物の量に対する感覚からすれば、それはもう同じ人間とは思えないような世界だろう。しかも客に対して出し惜しみするというのは、なんというかもうここでは、絶対にあってはならない事態である。「北ヨーロッパ人というのはムズカシイ人々だ」という東地中海世界の人々の常識が、こうやってまた形成されていくのだろう。
5月2日(金)
昨夜カツァブ大統領の介入もあり、今日から学校は再開。銀行と空港の業務も再開。他のストは継続中のところもあり、ストからサボタージュに移行したところもあり。でもこれはとりあえずのこと。今日の昼に財務相とヒスタドルート (労働者総同盟)の交渉が再開されるが、展開によっては独立記念日以降再び大規模ゼネストになるかもしれないそうだ。 で、子どもたちは学校に行ったのだが、息子は4分の1ぐらいの生徒しか来ていなかったと言う。みんなニュースを見なかったのか、見たけれども半ドンの金曜一日ぐらいいいや、という気になったのか。息子によれば先生も、「来なくてもよかったのに」と来ている生徒に言ったとか。そりゃまあ、少数しかいなければ授業を進めるわけにもいかず、いっそだれもいなければよかったという気持はよーく分かるが、口に出して言ってしまってはミもフタもなかろう。私も大学の教員組合のストのとき、午前10時とかけっこう中途半端な時間に裁判所からスト中止命令が出たことがある。裁判所命令が出たら、その2時間後の授業から再開しなければならない。秘書は教員には電話をかけて出勤を要請するが、学生にはいちいち電話しな� ��。私はそのときは大学にいたのでその2時間後のクラスに行ったのだが、学生は一人しか来ていなかった。たまたまラジオで裁判所命令のニュースを聞いたから来たのだと言う。そりゃあふつう朝のニュースでストのため授業なし、と出ていたら、その日はもう休みだと思うだろう。こっちだって学生が一人しかいなかったら、ちょっと話してお茶をにごして切り上げるしかない。
独立記念日が近いので、娘がイスラエル国旗を出してきている。家の前に飾るのだと。私も昔は、国旗を飾るなんてとんでもなく恥ずかしい行為だと思っていたけれど、アモス・オズの「私自身は民族国家というのは非ユダヤ人の楽しみであり、道具、手段にすぎないと思う。国家それ自体を目的とするのは偶像崇拝であり、非ユダヤ的である。しかし国家の枠組を持たないが故にヒトラーの虐殺を経験せざるを得なかったユダヤ人が生存していくために必要なのであれば、国旗やパスポートや軍隊や戦争までをも駆使して民族国家間のゲームに加わらざるを得ないのは認める」という一文を読んでからは、まあ家の前の国旗ぐらいは認めてもいいか、と思うようになった。とにかくこの人たちは、こんな国旗がなくったって、自分たち� ��アイデンティティは強烈に持っているのである。国旗やらパスポートやら国境やらを定めて、それを持たない者を生きにくくしてきたのは、非ユダヤ人たちなのである。 神格化しない、国家間ゲーム参加へのツールとしての国旗。それならまあ、私も許容できる。
日本語のネットニュースでは、ヨルダンの空港で毎日の記者が持っていたみやげ物だかが爆発して警備員が死んだと書いてある。日本の記者というのは何と申しますかすごいものだなあ、としばし感心。感心のあまり、2ちゃんねるの実況スレッドとかもちょっと読んでしまう。 日本の現況には疎い私とて、2ちゃんねるの存在は知っており、以前自分の名前のメタ検索をかけたときにパレスチナ関連のスレッドでちらっと名前が引用されているのを見つけたこともあ る(そのときは、日本基督教団の教会員たちがけっこう書き込みをしているのにオドロき、このような時代にこのような人々の牧会をするのはさぞ苦労なことだろうと、知人の牧師たちの顔をあれこれ思い浮かべ てしまったが)。まあ「禿同」が「激しく同意」の意味であるとか分かるのに少しは時間がかかったけれど、たまに読むことはあるのです。
追記:月がかわったので小遣いをくれ、と息子が言う。自動引出し機に現金がないからだめだ、と言ったら、ネットのニュースで毎朝現金は補充することになったと書いてあったと言われる。まったくこういうニュースだけはちゃんと読んでいるんだから。というわけで、現金は入手できるようです。
5月1日(木)
朝起きたら、気分はそれほど悪くなく、これでカゼは終息に向っているもよう。やれやれ。スト2日目。息子は昨日に懲りて、今朝は5時半に起きてネットでよくよくニュースを確かめたという。明日はお掃除の人が来てくれるが、この人には現金で払わなければならない。それ以外は、まあ現金がなくても来週初めまではしのげるだろう。こんなゼネストを1週間もやってはいられない。1日、2日なら、それこそ映画を見に行ったりしていればよいけれど。 しかし水曜日に決行したのなら金曜日まではそのままだろう。安息日明けぐらいに交渉再開の話が浮上するかもといったところか。どうせ何らかの妥協策が見出されるのならば、初めから妥協すれば無駄がなくてよさそうなものだが、そうはいかないのが政治。双方がそう簡単には妥協しないというところを見せて牽制しておかないと、次の機会にナメてかかられたら困る とか。 ニュースでは、ショアー記念日のためにポーランドへ行ったカツァブ大統領と数千人の生徒や学生たちを乗せた飛行機へのベングリオン空港への着陸許可が、スト中にもかかわらず ヒスタドルート(労働者総同盟)から出たとか言っている。そりゃあ大統領が空港閉鎖で帰って来られなかったら困るだろう。来週の戦没者記念日式典、独立記念日式典関係の仕事も許可されているらしい。 スト中でも、大学のテストとか、「絶対にやらなきゃいけないこと」は例外的に進められているのである (しかしそのときになってみるまで何がその例外的事項かは分からないのだ)。
朝からお豆腐屋さんが来る。まだ日本大使館の家族は全員帰ってきていないので柔らかい豆腐の注文はなく、固いお豆腐を持ってきたと言う。 左官屋兼画家のアラブ人の友人から電話。たった今ラジオにまた出演したところだと。また展覧会の話が計画されているそうだ。彼の絵画展に、彼が住む村の長を招待したのだが来なかった。どうやら彼が、村長さんの一族でない、というのが影響しているもよう。内部で妬みあったり足を引っ張り合ったり、無用なエネルギーを消費しているから、みんなが停滞するのよ。 いや別にその種の停滞があらまほしき状態というのであれば全然それでも構わないのだけれど、そういうわけでもなく、やはり電化製品の普及とか便利な生活とが人々に求められているところが問題。パレスチナ自治政府とか指導者層とかの内部勢力抗争の場合も、必ずこの「どの一族に属しているか」というのが重要なポイントになってくるらしい。
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