エクセルでリットルのLを筆記体で表示したい!
役に立った:0件
タイトルの通り表示したいんのですが、どなたか分かる方表示方法を教えて下さい!パレットで選択しても「・」で表示されます…。
!doctype>役に立った:0件
タイトルの通り表示したいんのですが、どなたか分かる方表示方法を教えて下さい!パレットで選択しても「・」で表示されます…。
!doctype>« 2007年04月 | メイン | 2008年04月 »
【国連決議1701号】
レバノン紛争は、最終的に欧米諸国の仲介によって、国連決議1701号を当事者が受諾することによって、停戦にたどり着きました。この国連決議1701は、安保理決議としてはかなり具体的な文章になっています。その内容は大きく5つに分かれます。
第一は「イスラエル・ヒズボラ双方の敵対行為の全面停止」です。これが国連決議1701の第1番目の原則となっています。第二は、停戦監視のため「南レバノン全土にレバノン政府軍と国連レバノン暫定軍(UNIFIL)を展開」するということです。このイスラエル・ヒズボラを停戦させ、その停戦を担保するために国連がUNIFILを強化し、停戦を監視するという役割になったということですね。
第三は「南レバノンでのレバノン政府軍、UNIFILの展開と並行し、イスラエル軍は撤退」するということです。国連決議1701号には"2.Upon full cessation of hostilities, calls upon the Government of Lebanon and UNIFIL as authorized by paragraph 11 to deploy their forces together throughout the South and calls upon the Government of Israel, as that deployment begins, to withdraw all of its forces from southern Lebanon in parallel"と記述があります。「並行的展開・撤退」というのは、90年代のユーゴ紛争のときに、国連の平和維持部隊とセルビア軍が撤退するプロセスにみられるように、国連が比較的得意としている方式です。このように、軍事的な空白をつくらない形で徐々に撤退していくという形式がとられました。
第四は「レバノン政府軍およびUNIFILを除く武装勢力のリタニ川以南への侵入を禁止」するということです。これはヒズボラの具体的な行動を縛ろうとする文言です。第五は「UNIFILを15, 000人に増強する」という形で、旧来のUNIFILにこの国連決議1701のマンデートを新たに付加するという形で、「停戦監視・人道支援・レバノン国軍支援などを主なマンデートとする」として部隊を増強することになっているということです。
最も多く派遣しているのがイタリアで、次がドイツ、フランスというふうにつながっていって、ここで非常に特徴的なのはトルコが派遣したことです。さらにインドネシア、カタール、そして最近ブルネイが100 名、マレーシアが360 名という、イスラム国家が国際部隊に関与していることがたいへん重要な位置づけになっています。中国もこの部隊に1,000人の派兵を決定し、国連の事務局自体は、さらなるアラブ諸国の参加を慫慂(しょうよう)している状況だということです。この配備の仕方についてもひと悶着あり、レバノン南部だけではなく、シリア・レバノンの国境付近にもこのUNIFILを配備したらどうかというような議論がなされたわけですが、これについてはシリアが、主権の侵害だということで強く非難をして実現をしなかったという経緯があります。いずれにせよ、欧州、アラブ諸国、中国を含む多国間主義がレバノンで成立したということは、高く評価してよいことだと思います。
【国連決議1701号の『選択的履行』】
国連決議1701号は、イスラエル・ヒズボラ(レバノン)関係を、どれほど安定的に管理できるのでしょうか?この問題については、国連決議1701号が十分に達成していないことについて、検討が必要となります。第一は、(イスラエルや米国が当初強く求めた)ヒズボラの武装解除が棚上げされているということです。ヒズボラが1701号をしぶしぶ受け入れた背景は、おそらくヒズボラ自身の武装解除を実行しないという内々の約束が成立していた可能性が高いです。EU諸国も、ヒズボラの武装解除を任務としないことを確認した上で、部隊の派遣に同意をしているようです。すなわち、対立の原因の一つとなった、ヒズボラの戦力の管理について、国連決議は役割を果たしている状況にはありません。
第二に、UNIFILの権限にも大きな限界が存在します。仮にイスラエルとヒズボラのいずれかが停戦違反によって戦闘を再開した場合、UNIFILはこれに対する強制行動を伴う権限やマンデートは必ずしも明確ではなく、かつその装備はイスラエル軍やヒズボラ軍に対抗できるものではありません。特にレバノン国軍は、不幸な内戦の歴史も重なり、その軍事建設・部隊の整備(ミリタリー・コントストラクション)が十分ではありません。レバノン南部に配置されているといっても、その装備と訓練はたいへん未熟な状態です。レバノン南部自体がレバノン国軍によって安定を保っていくには、なお大きな課題があるといえます。
第三は、「残された係争問題」があります。ガザの南部における戦闘をいかに処理するかという問題は、国連決議1701号と併せて、引き続き重要な課題として残っています。また「シェバ農場」の占領問題については、ヒズボラが武装解除を拒否する口実としていまだに残されています。
現在のヒズボラは、(その3)で解説する国連決議1701の合意以降、基本的に1989年に締結された「タイフ合意」の遵守を表明することによって、引き続きレバノン政府の中の既存の政治体制の内側にとどまることを表明しています。但し、現在のレバノン政府のガバナンスやガバナビリティーには、依然として問題があります。例えばレバノン国軍にしても、ヒズボラの武装組織との関係に混乱がみられます。政治体制の中に「タイフ合意」をもって入るといえども、なかなかそれが二重構造、三重構造の中でうまくいっていないというのが現状です。これが平和の定着という点で非常に大きな問題になってくるであろうと思います
【国連決議1701のバランスシート】
この国連決議1701号全体について、イスラエルとヒズボラ双方の「バランスシート」として考えてみましょう。仮に停戦が脆弱な状態だとするならば、その脆弱さはどこにあるのかを見る上で重要な指標となるでしょう。
レビューの(その1、2)でみたように、イスラエル側は①ヒズボラ戦力の武装解除(できれば解体)、②「(サブ・広域)リージョナル・リンケージの打破」、③グローバルな対テロ戦争の含意ということを、戦争の目的としていました。ところが、国連決議1701号で達成できたことは、必ずしも多くありません。イスラエル北部と南レバノンの安定については、同決議によって相当担保されたのではないかと評価できる一方で、UNIFILがどれほど抑止力として働くかという問題が残されています。さらに、「ヒズボラ組織の武装解除・解体」については全く達成できず、場合によっては将来さらに強化される可能性も残してしまったということだろうと思います。従ってイスラエルにており、実はイスラエル国内で満足できるものはあまり達 成されていない、と言わざるを得ない状況です。
それでは同決議でヒズボラが何を実現できたか、あるいは将来的に何を定着できたかということを考えてみると、必ずしもヒズボラが中長期的に勝利を得たとも言えない状況にあります。ヒズボラの武装闘争は、イスラエル側の大規模な攻撃を招き、レバノン全土に大きな被害を与えました。そのため、これまでのヒズボラ路線に対する支持についても、レバノン国内で大きく揺らぐ可能性もあるでしょう。また、「レバノン南部の解放」「反イスラエル占領・抵抗・武装闘争を継続」していくという従来からの路線を、共存路線に転換できるのかということについては予断を許しません。 「ハマスとの連帯支援」ということにつきましても、イランとヒズボラとの結びつきをさらにハマスに連携させて、強化するということについて� ��、まだ多くの困難が伴っているという指摘もあります。
「バランスシート」として考えて、どのアクターも十分な利益を得ていない。イスラエル国内で「一体この34日間は何だったのか」という疑問は、当然起こり得るものでしょう。またヒズボラ側も「勝利とばかりは言っていられない状況」ということになります。その全体構造を考えても、国連決議1701号の脆弱性はいまだに残されています。しかし、この現状を打破して新たな戦争を起こすほどの利益を双方にもたらすわけではありません。双方の信頼は大きく損なわれ、また将来への恐怖は残されたまま、という状況において、レバノン紛争は停戦しています。
(第5回レビューおわり)
投稿者 kenj : 14:01 | トラックバック
【レバノン紛争の軍事的側面】
レビュー(その2)では、なぜイスラエルがレバノンを攻撃したのかということについて、いくつかの見方を提示しました。それがイスラエルの「比例原則」による反撃以上の大きな意味を持つということは、レバノン紛争の軍事的側面をみることによって、よりはっきりとすると思います。
レバノン紛争の緒戦における特徴は、イスラエル空軍がレバノン全土に対する大規模な空爆を実施したことです。授業で使用したスライドでも示したように、イスラエルのレバノンに対する空爆は、南部に関しては、ヒズボラのさまざまな基地、トレーニング施設、物資の集積基地などを狙い、北部のトリポリでや、中部のベイルートも含めて、さまざまな形で空爆を行うなど、レバノン全土にわたりました。
授業中の写真でみたように、南部レバノン諸都市やベイルートは、多くのビル・建物が破壊され、凄惨な状況となりました。ところが、これほど大規模の空爆にもかかわらず、イスラエルが十分にヒズボラの戦力を削減させたとは、いえない状況にあるようです。さらに、ヒズボラの戦力や関連インフラの復興は、急速に進んでいるというのが実態のようです。
その理由は、さまざまなところを爆撃しても、ヒズボラの多くの集積施設自体が地下施設であったことと、ロケット弾もたいへん素早いスピードで移動し、無人発射できるような時限発火式のロケット弾など、かつてよりも洗練され、生存性の高い兵器体系を配備していたからでした。イスラエル軍がどれほどこれらの戦力を除去できたかについては諸説ありますが、ヒズボラのロケット弾が多く見積もって13,000発だとするならば、3,000~4,000発位の破壊にすぎなかったともいわれています。
!doctype>一読して、激しく胸を揺さぶられました。ぜひ、多くの日本人に読んでもらいたいと思っていたところ、友人から二信目が届きました。
バグダッドにメールを送り、本人に確認したところ、公表してもいいという返事があったそうです。さっそく、ここに転載します。NGOメンバーたちによる翻訳を添えます。
訳文では、原文の Please という一語が省略されていました。その Please という言葉に、切実な叫びがこもっていると感じられますから「どうか」という言葉を(原文通り)二か所に挿入しました。さらに、読みやすく改行をほどこし、一部、訳文を補いました。
発信者に危害が及ばないように、名前の部分だけ●●●●で消しました。あとは、すべて原文のままです。文末の Rei とは、空手を習っているというので、おそらく、日本語の「礼」のことだろうと思います。
!doctype>@PXUO|VOÑxgi푈̖AČŔA̕s̎s⍬Am̎mC̒ቺȂǂЂǂȂASIȔskւƔWB̍ہAČR̕\鑁̂łƂƂāAxgiŐ키ČR̒Z≺ḿAECsۂBxgixɂŕč̌̋ɖ߂܂܁AxɊԂ߂ĂɕAȂm╺}B
@ɂčŋ߁Axgi푈ɎQo[gEXP[ÝuZ≺m̓ŚAČR̕\̂B傤ǁAYB̃KXRm点JiÄٕς̂悤Ȃ̂BZ≺mɐ키CȂȂAR͐푈𑱂ȂȂvƏqׂĂBi֘ALj
@SONÕxgi푈̘bA܂ɂȂĂ̂́ACNAtKjX^ɏ]R钆Z≺m̊ԂɁASCۂł邩炾BXP[Ýu܂ČRł́AقǑ吨̃JiAA瓦oƂĂvƎwEĂB
@R@cɂE҂̐́A{̂̐ΐ͑債ƂȂBNԂ̕ςAXON㖖ɂ͂PWOl̂Aŋ߂ł͂RXOlɂȂxłB̈ŁAČR̗RmwZiEFXg|Cgjł́AČR̎mɂȂׂƐ̑ARȊȎgDɏAEARłɍsȂE]䗦ARONԂ̍ɂȂĂBƂQOOPNx̑ƐXORl̂TŚAłɕČRĂBSł͂ȂA@IȂŌRmBi֘ALj
@ČR͐VWɂJĂBČR̓xgi푈܂ł͒Ǎ͕W̌RȂ̂ŁAȏ̐̐lX\Ȑlɉ債Ă邱ƂAR̔\͈ێɕKvłBČRł͂ƂƁAm̂Xȏオȏ̊wƂW̖ڕWƂAߋɔƍ߂ƂƂOȎ҂͓Ȃ悤ɂĂBAȏ̊w҂̊͂WŁAVɕmɂȂlX̂OȎ҂ƂɂȂĂBi֘ALj
{[iXŕmȂƂ߂
@{hCcuɈvƂC[W܂ƕčɐAt邱ƂɐÉAAJɂƂĂ܂푈ŁA펀҂ĂČRm̎mC͍BCN푈łĐ{́AJ܂ł̓T_EtZCqbg[݂ɋɈȓƍَ҂ƂC[WɎdĂ邱ƂɐAORNR̃CNNUɂB
@̌AJ펖RƂȂCN̑ʔjJE\ł邱Ƃ\IAubVCN̖剻͎AtɃCXȆŜŔĊ܂Ačł̕ČRɂCNlɑsҍsׂAQ|̖ڂŖ̎sɎEႪoAčɂƂĉ̂߂ɐĂ̂ȂԂɂȂĂBČR̎mCAmRAVɉ傷l͓̂RłB
@W̌Rs푈́A푈ɑ鍑̎xA܂uZvƁuvKvƂB̐푈ւ̎xW߂邽߁AGԈȏɋɈAĂ̂ɏĂƌāAE\֒鍑AꂪƔskɂȂBE\Ă_ŁAAJ͂łɃCN푈ɕĂB
@푈̑`Đ{́Am⏫ZRɂȂ~߂Ă߂ɁA{[iXς݂Ȃz͔NԂPOhɂ̂ڂACNJ펞̂U{ɂȂĂiNԂ̐zQROOhɔׂƔX̂jBi֘ALj
!doctype>1週間のんびりとして過ごしました。母はお陰さまで元気にしています。母のために書類をタイプしたり、ゆっくり本など読んだりして過ごしました。最近のお気に入りは、私が高校時代に好んで読んだ、マイクルZリューインというヒトの本。アルバートサムスンという私立探偵が主人公なんですが、今おもしろいなーと思って読み返しているのは、その私立探偵の恋人のアデルという女のソーシャルワーカーを主人公にした1冊です。「そして赤ん坊がおちる」というマザーグースの一節を題名にした本ですので興味がある人は是非。でも、これはアルバートサムスンのシリーズを読んでからのほうが一層楽しめるかもしれませんが。
!doctype> 例えば、ラバウルではエース級の操縦者が長距離進攻の繰り返しによる過労でばたばた撃墜されてる
いっとくが日本海軍は決戦主義、つまり零戦の長距離進攻はやるにしても一回かせいぜい二回のつもりだったんだ
だから零戦の要求仕様決定段階では作戦の繰り返しによる疲労の蓄積なんて頭の片隅にも浮かんではいなかった
何か、回転と同期させる仕組みが?
エンジンの軸に歯車かまして、機関銃の引き金のところにつけたカムを回す
プロペラが銃口の直前にきたらカムが引き金を離して発射をストップさせ、ペラが通りすぎたら再び発射する
坂井三郎氏の著書によると、ペラ打ちと言って7.7ミリがプロペラに命中する事が、たまに有った
そうです。ただし、プロペラは非常に強靱に作られていたので7.7ミリ程度では、
小さな凹みが出来る程度だったそうです。
初期の機体は、空に溶け込むように灰色。後期の機体は、飛行場を爆撃された際、敵に存在をきずかれない様に、深緑色。
(モデルアート系ライターを中心に異説がありますが、いわゆる「定説」ではありません)
人間の目は遠くのモノを見る時には白黒のコントラストしか認識できない構造になって
おりますので、空中での戦闘だけを考えるのなら明るめのグレーが一番認識しがたい色で
あることになります
最近の制空戦闘機の多くがグレー系塗装であるのも、この理由からです
夜間暗視野装置に電気が必要だったと思う
簡単にいえば、照準用十字を照明して見えるようにする。電照ゲージというやつ。
制限速度の範囲内で急降下-捕捉-射撃-余力上昇-急降下捕捉-射撃-余力上昇・・・
出来ます。
どこから発進し、どういう攻撃をして帰っていったんですか?艦船以外の攻撃目標もあったんですか?
航続距離はどのくらいあったんですか?市民を追いかけまわして機銃掃射をしたのは本当ですか?
零戦のタイプは21型
塗装はグレー
空母から発進し、攻撃機の護衛をしました
零戦の目標は敵戦闘機と基地に置いてある航空機のみです
だいいち、当時の零戦は爆弾を搭載できません
機銃による地上掃射は行ったので、一般人にも被害は出たようです
後続距離は約3000kmだったと思います
空母から発進して、ハワイ上空で1時間程度の戦闘を行うには十分です
零戦は意図的に一般人を狙ったのではない
空襲警報が出ているのに軍事目標のそばをうろうろしている一般人が攻撃に巻き込まれただけ
超低空飛行は、たぶんない
地上砲火を避けなきゃいけないから
三菱ですが中島もつくっておりました。
一口に零式艦戦(零式艦上戦闘機)といってもいろいろありますが。
例えば21型とか32型とかあります。
最初の数字が機体、次のがエンジンの変遷をあらわしております。
機種表記番号とゆうのもあって、例えば21型ならA6M。
これは艦戦(A)として採用された用された六番目(6)のもので、
設計は三菱(M)が行い、初期型から数えて二番目(2)のタイプのものです。
ただ中島製(製造された)だからといって、A6N2になるのではなく、A6M2です。
Mはあくまで開発コードだからです。
航空ファン誌にて、飛行機を貸したプレーン・オブ・フェイム側の話として
「考証が違うのは認識しているが、「零戦らしさ」を重視するため
後期の迷彩になった」と説明してありました。
映画に使えるゼロが緑のしかなかったから。
あとはCGや偽モノのゼロも出演している。
零戦の後継機に関しては、エンジン選定に失敗したのが原因です。
中島が開発した「誉」を海軍が推したのですが、三菱は「MK9A」を推しました。
この対立で時間を空費し、結局誉で試作したのですが、工作精度の低下で、要求性能に達せず、
改造などで試作が長いことかかり、結局、誉を捨てて、最初の構想通りMK9Aを採用することになりました。
そして、漸く生産に入ろうとしたときには、空襲と地震で後継機としては間に合いませんでした。
(16:眠い人 ◆ikaJHtf2)
こんなこと言ってた人がいるんですが事実ですか?
もともとは、スイスのエリコン社で開発されたものですね。
米軍の艦載対空機銃にスウェーデンのボフォース社のものが使われていたように、
外国で開発されたものを使うこと自体はそう珍しくはないのでは?
格闘性能は零戦が勝っていましたし、武装も20ミリ機関砲を搭載するなど勝っていました。
また、全周方向を確認できる視界の良いキャノピー、落下増槽などの装備も優れていました。
但し、生産性の良さ、頑丈さ、速度、爆弾搭載量、性能向上の余地などの部分に於いては、P-40の方が優れています。
旋回戦を行うなら零戦が、一撃離脱ならP-40の方が有利でしょうね。事実、中国戦線では互角に戦っていましたから。
(17:眠い人 ◆ikaJHtf2)
!doctype>両者の機関砲(銃)に対する考え方にかなり違いがあるのか、前者では7.7ミリ機銃後者では20ミリ機関砲を、重視(好んで使った?)ように見受けられました。
この辺りの違いは、何に拠っているのでしょうか
地理的に細長く山岳地帯が多い上に、中国・九州と近いために常に毛利氏・大友氏の干渉に晒されることになり、一国を統一し他国へ侵略するような勢力を持てずに終わった。
As it is long and thin geographically and mountainous and in addition, close to Chugoku and Kyushu, it was exposed always to interference by the Mori clan and Otomo clan, and could not have the power to unify the country and to invade into the other countries. - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
なお、当初は東一条殿(ひがしいちじょうどの)と呼ばれていたが、邸内に撫子や萩が咲き乱れていたことから、「花山院」と呼ばれるようになったとされている(『古今著聞集』)。
It was originally called 'Higashi-Ichijo Dono' (the residence by Eastern Ichijo Street) but it subsequently came to be called 'Kazanin' (the residence by the mountain covered with flowers) after the dianthus and lespedeza flowers in the estate (according to "Kokon Chomon-Ju"). - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
この結果、頼忠は政務への参加を厭うようになり、その結果、花山天皇時代の太政官は外戚である権中納言藤原義懐が主導し、左大臣源雅信が一上として官奏(官奏候侍者)を行い、あるいは宣旨・官符を実施するようになった。
As a result, Yoritada came to hate taking part in affairs of state and, therefore, the dajokan (great council of the state) in the era of the Emperor Kazan was led by FUJIWARA no Yoshichika, Gon Chunagon (a provisional vice-councilor of state) who was a maternal relative and MINAMOTO no Masanobu, who was the sadaijin, carried out kanso (to make a comment to the Emperor at the morning meeting) and executed senji (message of the Emperor) and kanpu (official documents from Dajokan, or Great Council of State). - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
夏山雑談では目赤・目青も地名であるかのように語られているが、現在の目赤・目青の各不動尊はいずれも引越しを機に名乗り始めており、移転先で地名を残すには至っていない。
In Natsuyama Zatsudan, Meaka and Meao are described as if they were geographical names but Meaka and Meao Fudo-son respectively began to be referred to as Meaka Fudo and Meao Fudo after relocating to their current locations that have yet to be named after those Fudo-son. - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
47都道府県のうち福島、群馬、神奈川、岐阜、岡山、広島、佐賀の各県では県条例によって指定した有形文化財を「○○県指定重要文化財」と呼称しており、国の指定した重要文化財と混同しないよう注意を要する。
Among the 47 prefectures and municipalities, Fukushima, Gunma, Kanagawa, Gifu, Okayama, Hiroshima and Saga designate, based on their prefectural or municipal ordinances, some selected tangible cultural properties as 'OOprefectural/municipal important cultural properties'; these should not be confused with the nationally designated important cultural properties. - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
鳥山石燕の「画図百器徒然袋」では、銅盤を頭にかぶった人のような姿で、瓢箪の妖怪である瓢箪小僧と共に描かれている。
Sekien TORIYAMA's 'Gazu Hyakki Tsurezure Bukuro' (The Illustrated Bag of One Hundred Random Demons; the term 'hyakki' in its title is a pun on the usual hyakki, replacing the character for demon which is written as "鬼" in Japanese with a character for vessel written as "器," and sure enough, most of the yokais shown in this book are tsukumogami) portrays the Nyubachibo in a human-like figure wearing a copper disk (or cymbal) on the head, along with a Hyotan-kozo (a calabash or bottle-gourd boy) which is a specter of bottle gourds. - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
宣長・石塚によるこの研究は長く評価されずに埋もれていたが橋本進吉によって再発見され、1917年、「帝国文学」に発表された論文「国語仮名遣研究史の一発見――石塚龍麿の仮名遣奥山路について――」で学会に評価されるようになった。
Although the studies by Norinaga and Ishizuka had not been evaluated for long time, Shinkichi HASHIMOTO rediscovered them and published an article called 'A Discovery in the Field of Japanese Kana Usage Research Concerning Kanazukai Oku no Yamamichi by Tatsumaro Ishizuka' for 'Teikoku Bungaku' (Literature of the Empire) and it made the studies recognized by the academic community. - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
1687年に朝仁親王(東山天皇)への譲位にこぎつけた後に仙洞御所に入って院政を開始し(以後仙洞様とよばれるようになる)、その年には同じく長年中断していた新天皇の大嘗祭を行う。
After the succession of Imperial Prince Asahito (later called Emperor Higashiyama) to the Imperial Throne in 1687, he went to live at Sento-Imperial Palace and started ruling the cloister government (after this he was called Sento-sama, (Sir Sento)), and he organized the Great Thanksgiving Service (after the Enthronement of the Emperor) for the celebration of a new Emperor, which had not been done for a long time. - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
「雍州府志」では、川の西に桂の里が有ることから嵯峨より南の下流域を桂川と呼ぶようになったとあり、それより上流にあたる嵐山流域をやはり大井川としている。
According to the Yoshufushi (gazetteer of Yamashiro Province), the river downstream to the south of Saga was named the Katsura-gawa River since the 'Katsura-no-sato' (village of Katsura) lay on the west side of the river, while upstream, to the north of Saga around Arashiyama, the river was described as the Oi-gawa River. - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
また、前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけとなる院宣を受け取った場所でもあるため幕末の歴史家頼山陽は"足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた"と喩えた。
Further, as shown above, taking into consideration that Tomo is the place where Takauji ASHIKAGA received the decree which lead to the establishment of the Muromachi bakufu, Sanyo Rai as a historian in the end of Edo period thus remarked: "Ashikaga (Muromachi bakufu) came to power in Tomo and got overthrown in Tomo." - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
李氏朝鮮王朝では釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令したが、度重なる命令無視のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免され、後任には元均が登用された。
Although Yi Dynasty Korea ordered the Korean navy to attack the Japanese army that had assembled in Busan, Yi Sun-sin, who was the Naval Commander of the Three Provinces, was removed from his post because of repeatedly ignoring orders and Won Gyun was appointed the successor. - Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
そこで、『葉隠』の中から今日のビジネスマンにも通じる言葉を抜粋して、現代風解釈を加えてみよう。
「人の心を見んと思はゞ煩へ。」と云ふことあり。日頃は心安く寄合ひ、病氣又は難儀の時大方にする者は腰抜け也。
全ての人の不仕合せの時別けて立入り、見舞附届仕るべき也。
恩を受け候人には、一生の内疎遠にあるまじき也。
斯様の事にて、人の心入は見ゆるもの也� ��
多分我が難儀の時は人を賴み、後には思ひも出さぬ人多し。
『人の本心を知るには病気をするに限る』
人の心を見ようと思うのならば、病気を患え」と言う諺がある。
日頃は親しく付き合い、病気や、問題が起こった時にいい加減な事をするのは腰抜けだ。
全ての人が不幸せの時に特に立ち入って、見舞うべきだ。
恩を受けた人には一生、疎遠にしてはならない。
この様な事で、人の心入れは見えるものだ。
多くには、自分が問題を抱えた時は人を頼り、その後で思い出しもしない人が多い。
☆彡 ★彡 ☆彡 ★彡
人中にて欠伸仕り候事、不嗜なる事にて候。
『人前での欠伸は恥ずかしい』
人前で大あくびをするなどもっての外。
欠伸をしそうになったら額を撫で上げれば止まるもの。
それでも駄目なら舌で唇を舐めて口を閉じ、手で隠すなどして人に見られないようにすべきである。
くしゃみも同じである。
☆彡 ★彡 ☆彡 ★彡
翌日の事は、前晩よりそれぞれ案じ、書きつけ置かれ候。
これも諸事人より先にはかるべき心得なり。
『翌日のことは前日の夜から考えておく』
!doctype>アリゾナ州セドナ観光局による、セドナの観光案内のサイトです。ヴォルテックス(ボルテックス)サイトの点在するセドナは、癒しの町、スピリチャルな町と して日本でも注目を集めていますが、見ることやることがたくさんある大変奥の深い町です。セドナの町の楽しみ方は、以下を参考になさってください。また、 セドナ観光に関するご質問は、inf/p>
セドナは、何気ないときに、ふと、予期していなかったような貴重な体験をしていただける場所です。レッドロックの山道を登って行き着くネイティブアメリカンの遺跡。オーククリークの水の流れを聴きながら楽しむ春の新緑、秋の黄葉。モンスーンに季節のドラマチックな雷雨。ジープで駆け上がりながら眺める太古の昔から変わらぬ景色。聳え立つレッドロックの岩壁に手を触れたときに伝わってくるぬくもり。岩間を吹き抜ける風。ネイティブアメリカンが食用、薬用、日用品として、驚くほどたくさんの用途に利用していた植物が広がる赤い大地。歩いていて出くわす野生動物。朝日や夕陽を照り返して刻々と色を変えていくレッドロックの岩山。大昔、この地を神聖視していたネイティブアメリカンの人々はこの景色を見て� ��を感じていたのでしょう。彼らの残した壁画を見たり、彼らが住居を作るとき土を固めるのに残した指の跡まで残っている遺跡を目にすると、彼らの息吹が感じられるようです。こうやって、自然の中に身を置き、自然と触れ合うと、ふとした瞬間に自分の人生が見えてきたり、新しい発見があったり、自己変革のきっかけを見つけられたり、自分が生きているということが実感できたり・・・、そういった不思議な気づきの体験をさせてくれるのがセドナです。
果てしなく広がる青空、想像力が掻き立てられる白い雲が浮かぶ空、満天の星空、神秘的な月光を放つ空、そんなセドナの空を見上げて深呼吸をすると、時を超え、今、この場所に自分が生きているということが実感できるでしょう。
何日いても、毎日が新鮮で、やること、見ることが尽きないセドナ。そして、「何の計画もない時間」の貴重さが実感できる町・・・。是非、多くの日本の皆さんに、このゆったりと時間が流れる中、セドナの特別なエネルギーの中に身を置き、自然との一体感を感じていただきたいと思います。
今までにセドナに訪れた方々の「あ~、セドナ!」と言う瞬間を集めてあります。是非ご一読ください。
アメリカ南西部、アリゾナ州中北部にあるセドナは、州都フェニックスより北に2時間、州を代表する観光名所グランドキャニオンより南に2時間に位置しています。
セドナには日本語でサービスが受けられるビジネスもあります。
!doctype>You don't have permission to access /J/yamakawa/ooisi.htm on this server.
Additionally, a 403 Forbidden error was encountered while trying to use an ErrorDocument to handle the request.
これまで名言を避けてきたブッシュ大統領が、ついに口を開きました。
「フセインがテロに関与していた証拠はありません。副大統領によると・・・・・」
--------------------------------------------------------------------------------
元ニューヨーク市警 巡査部長 ウィルトン・セクザー
あの言葉を聞いて椅子からころげ落ちそうになりました。
イラクと911に繋がりがあるという見解がどこから出てきたのか分からないなんて。
良く言えたものです。
フセインがテロと無関係なら、イラクに派兵した理由は何だったんでしょう。
心底腹が立ちましたよ。
嘘をつかれたという思いが、真っ先に浮かびました。
私は古い人間です。
世の中には不可能を可能にする偉大な人たちがいて、アメリカ大統領もその一人だと信じていました。
それが、裏切られてしまいました。
国民が大統領を信用できないなんて、国の体制そのものがおかしいのではないでしょうか。
政府は私の愛国心と、息子のために復讐してやりたいという気持ちを踏みにじりました。
ただ、あの時は私も正気を失っていました。
復讐を焦るあまり、なんでも鵜呑みにしていたんです。
私の言動を見て、戦争を推進する最低の人間だという人がいても仕方ありません。
私は爆弾に息子の名前を入れたことを恥じています。
新たに独立したアメリカでは、海賊行為や密輸ではそれほどの利益が得られなくなり、代わって奴隷貿易と違法麻薬の密輸が盛んになった。この二つがエリートたちに富をもたらし、アメリカエ業化時代への基盤となっていく。 一九世紀前半にアメリカ人がイギリス人と結託して作り上げた違法な麻薬貿易は、その後も果てしなく広がっていった。そしてここでも、貿易を支配するのは選ばれた家系の中枢にいる者たちだった。彼らはイギリスでもアメリカでも、メーソン細胞に組織されていた。入会のためのチケットはまず家系であり、あとはロッジのコネクションだった。
合衆国建国の父たちはほとんどが奴隷を所有していたが、これは合法的な行為だったのだから特に驚くことではない。しかし、彼らの多くが密輸業者でもあったと聞けば驚くかもしれない。合衆国のもっとも重要な銀行のいくつかは、麻薬取引、密輸、奴隷貿易、さらには海賊行為による利益で創設され、現在に至っている。ニューイングランド[New England]で確固とした保険ビジネスが生まれ繁栄したのも、アヘン貿易や奴隷貿易の船舶保険から利益を得られたからだ。
一九世紀には、北米大陸を横断する大規模な鉄道システムが築かれたが、これも違法麻薬の密輸による利益が基盤になっていた。さらにはアヘンによる莫大な資産の一部は、のちの電話・通信産業の種子も提供したのである。
!doctype>